■大海を知る。





「ひゃー良い女ばっか」

太陽の熱視線に晒されながら設置されたビニールチェアに横たわって、既に7回は同じセリフを聞いている。耳にタコが出来るとはこの事だ。
俺たちは住んでいるマンションから車で1時間半程の海水浴場に来ていた。先月の末に海開きになったばかりということもあり、各地方から風物詩を求めた若者が集まっているようで、砂浜は流石日曜日という混みようを見せていた。
この人に叩き起こされ朝っぱらからサーフィンに連れ出されたかと思えば、人気が出てきたタイミングで遊泳エリアに移り昼飯の焼そばを食ってからもうかれこれ3時間はこうしている。ビールを片手に双眼鏡で水着女子を視姦する横のおっさんは犯罪者とそう変わらねえ。ライフガードがビーチを見回りにくる度に慌てて双眼鏡から手を離させる俺の身にもなってくれ。まじで捕まるぞ。
「お、おぉ?」
「やめろってオッサン」
いよいよ変質者みたいな声を上げ始めたもので、俺は冷や汗をかいて彼の視線の先を追った。数十メートル先のカップルがこんな人目のある海水浴場だというのになかなかハードなボディタッチをかましている。
「なにが楽しい」
人様の致しているシーンなんざ、AVでもなけりゃ俺はごめんだ。
「いやぁ俺も可愛い女の子連れて海行きてえなぁと。」
お?遠回しな嫌味か。付き添いがこんなつまんねーガキで悪かったな。
「仕事でも海と付き合ってんのに、オフの日にわざわざ足を運ぶ趣味が俺には理解出来ねえよ。」
コラさんはカップルの絡みを見つめながら「ァー」と声を出した。その双眼鏡から目を離せ。
「んー、うん。海は好きだ。」
やっとべたりとくっつけていた双眼鏡から目を離したと思えば、ガキみたいな顔で笑う。海自体は俺も嫌いではないが、この人のように仕事でも日常でも始終見ていてぇわけじゃねえ。
幼少期孤児だったコラさんを拾ってくれた人が海軍のお偉いさんだったらしく、彼は幼い頃から海と共に育ったと聞くが。それを加味しても、ちょっとこの人はズレてんじゃねえかと思う。
「それに仕事してっとかわい子ちゃんの水着は拝めねえしなぁー」
アホくせ。真面目に話しを聞いていた俺が馬鹿みたいだ。サーフボードも陸に上げ、体も乾いてしまえば男二人で海に来てんのすら薄ら寒く感じる。いや、物理的に言えば今日の日差しは身を焦がすように暑い。日焼け止めもサーフィンの後塗り直しはしたがこの日差しの中どれだけの効果があるのか知れない。
灼熱の中、レンタルしたでかいストライプのパラソルが唯一のオアシスだった。
小麦色の男にも憧れるが、あいにく俺もコラさんも低温火傷になるだけで色は残らないから良い事無しだ。日焼けに関してコラさんは特にそうで、元から北の血が入っているらしく陽の光を反射するブロンドは綺麗なものだし、肌は男の割に白い。耐性がないのか、肩にかけたバスタオルから見える腕は既に赤く炎症を起こしていた。
子どもの甲高い笑い声。女の猫なで声。男共の雄叫び。おっさんの欠伸。公道を走るスポーツカーの音。周りの喧騒と共に後ろの海の家から新曲が流れてくる。夏に丁度いい頭の軽そうなエロい曲。俺はろくに知りもしねえ歌詞をその場で追いかける。気分良く乗っていた数十秒も、夏のヒットソングがサビからBメロに変わりいよいよリズムも取れなくなってきた所で敢え無く脱落した。

「お前顔は整ってるんだから誰かかわい子ちゃんに声かけてこいよ。」
そもそも女っ気のない男二人の生活の中に潤いを作ろうぜと俺を引っ張り出したこの人の中じゃ、ナンパも風物詩の一つにカウントされているのだろうが、その後にお前みたいな青二才を好きな女子もいるだろ。と付け足されたため、持っていたウーロン茶を腹にぶっかけてやった。
「うっお冷て!冷テェ!」
コラさんは氷が海パンの中に入ったとか騒いでビニールチェアから立ち上がった。コラさんの腹からも椅子からも溢れたお茶が砂に沈んで色を落とした。
「お前な、飲み物をそうやって粗末にすんじゃねえよ。コラさん育て方間違ったか。」
「一言多いんだよ。」
「ガキだって言われて飲み物ぶっかけてくる奴がガキじゃねえとでも言う気か。」
「るっせーるっせー」
彼が拳を振り上げたから上半身を振って避ける。元から大したスピードではなかった腕を取って逆に叩いてやると、上から飲みきった氷水をかけられた。さっき俺もかけたからお互いさまとはいえ、不意を打った冷たさに悲鳴が上がる。
くだらねえことで騒ぎ立てる俺たちの前を湯気の立つ牛串ステーキを持ったカップルが美味そうな肉汁を砂浜に零しつつ横切った。
「肉食いてえ」
どちらともなく発した声に互いの目をカチ合わせると直ぐさまジャンケンの体制に入る。殴れば人を殺せそうな勢いで振り下ろした腕はコラさんがパーで俺がチョキ。

パーに開いた手を力無くひらひら振って、財布を片手に歩いていくコラさんを見送った後俺は手元に置いていたグラサンをかけ直し目を閉じた。
もう二十歳も超えたいい大人が、大きな目的も無く海に来てナンパに喧嘩と。本当にアホらしいと思うが、コラさんはなんだかんだで俺に付き合ってくれている面もあると思う。俺は自分から遊びに出るような真似をしないから、気にして声をかけてくれているのだろう。馬鹿やって付き合ってくれる居心地の良さは実際に血の繋がった兄のようだ。中学2年の夏に家族が乗った客船が国境を越えて密漁を働いていた大型の漁船とぶつかり北の海で沈没した。直ぐに助けに行けば助かった命を、その船の船長は金持ちだけを救命ボートに優先させ逃げた。夜の海に浮いた幾つもの死体に乗って生きながらえた俺を、海兵であるコラさんが拾ってくれた。
彼の本名はドンキホーテ・ロシナンテ。軍としての位はそこそこ高いらしいが、俺は彼の仕事事情を根掘り葉掘り聞くタイプでもないし、あの人も必要以上に喋らないんで詳しくは知らない。拾ってくれた時に「コラソン」というコードネームを使っていたので、俺はコラさんとしか呼ばなかった。

コラさんは俺より13も年上の正真正銘オッサンだ。出会った頃はギリギリ兄ちゃんのラインだったものの、今の彼に女の影の一つもないことに対し俺は割と本気で心配している。
コラさんに似合いの、家庭的でフリーそうな女を探すか。って、んなの一目で分かるわけもねえが。


それから睡眠を取る為に目をつぶったり、また開けてはコラさんの彼女候補を探したりしている間に日は随分と傾いていた。
あの人が串を買いに行ってもう一時間は経った。なにをやってんだあの人は。またお得意のドジでもやらかして、どこぞで迷惑をかけていなきゃいいが。一回り以上下の俺が気にかけんのも可笑しな話しだが、彼の抜けた性格は出会った当初から直らない。
夕方の空が海に光って、波は燃える赤のようだった。
ぼやぼやしていると日除けのサングラスの隅に人の立つ気配を感じる。
「おせーよ。」
「まあそう言うなって、これでもナンパ成功させて来たんだぜ。」
こんな時間から捕まるとか体目当ての馬鹿女か。それが分かっていて捕まえるあんたもよほど馬鹿だ。どちらにも忠告してやろうと思い、コラさんのほら、という声に応えるように片手でグラサンを額まで上げた。視線をやっても目の前に立つのはコラさん一人のように見えて、彼の長身を辿って目線を上げる。
「かわい子ちゃん捕まえた。」
コラさんの肩には目元を赤く腫らした、4歳くらいの女の子が乗っていた。水玉のフリルがついたワンピース型の水着を着てしゃくりあげる彼女は確かに可愛い。この凶悪面の馬鹿でかいおじさんに、その右手に持つリンゴ飴で買収されたのだろう。
「犯罪だぜ。」
ああ、この人が嫁を貰えるのは随分先になりそうだ。






いつも、夢を見る。
肩越しに見える白い横顔は、口紅で大きく頬の上まで紅が引かれていた。ブロンドの髪を持つピエロのような男。
よく似ているが、俺の知るこの人はこんなメイクはしない。その影は確かな足取りで雪の中を歩く。
小さな、小さな俺は彼の広い背中に背負われて、寒さを防ぐ黒い羽が頬を擽るだけで痛みを訴えた。辛くて、心が痛くて俺が背中越しに何かを言うと、彼は怒鳴ったようだった。

強い風と、大きな雪の粒が降り注ぐ中を、俺を背負ってひたすら歩いていく。白い世界は俺とあんたを徐々に飲み込んでいく。
なあ、あんた、どこに向かっている。

「…」
目がさめるとベッドの上だった。
自分で選んだ青い布団と水色のシーツ。暖かい空気が体を包んでいる。
今日も健康体。俺は幸せだ。
こういった夢は小学生くらいからよく見ていた。

中学2年でコラさんに初めて出会った時、いつも夢に出てくる男はこの人だと直感した。
でも、俺の夢に出てくるだけでそれ以上のことは起きない。あの人は何も言わないから、多分この夢を見るのは俺だけなんだ。

部屋のドアが開くとコラさんが顔を出した。首元でカットされたブロンドが揺れる。
長い身長を折りたたみ、わざわざ顔だけが出るようにしているあたり、この人も変わらない。別に面白くもねえし、一度だって俺がそれで笑ったこともねえだろうに、ご丁寧に毎日枠から顔を出しては生首みたいにしてくる。
「メシ」
が、できたって言え。
「食う。」

クローゼットにかけてあった上着を無造作に取って、腕を通しながら廊下を歩く。数歩足を進めるとリビングからベーコンの焦げた匂いが漂ってきた。
「主語だけで話すなっつったろ。」
メインテーブルに寄って椅子を引くとフローリングと擦れて下品な音が鳴った。コラさんは油の跳ねるフライパンから目玉焼きを皿に移すと口をすぼめる。
「ブーッ、毎朝作って起こしにきてくれる優しいお兄さんに対して文句を言うガキに食わせるメシはねえ。」
いちいち面倒くせえ絡みをしねえとこの人はコミュニケーションも取れねえのか。その掛け合いがこの人なりの気遣いなんだろうと理解しながらも、寝起きの悪さと相まって鬱陶しさが勝った。
「三十半ばでお兄さんって、自分で言ってて痛くねえか」
コラさんの言葉を無視して新米の美味そうな匂いを立たせる茶碗を片手に、焦げたベーコンと目玉焼きを一口に頬張ると机の下で足を蹴られたから、せめてもの抵抗でイテェと呟いた。


まだ夏だが、流石に明け方は寒い。
俺の大学は都内にある。マンションからは歩きとバス、それに電車を乗り継ぐこと2時間はかかる為地味に遠い。単位を落とさないよう毎朝6時前には家を出る。俺は至って真面目な生徒なんだ。

結局昨日はあの後、日暮れの波打ち際に迷い込んだ人魚の親御さんを探しに海の家に行ったり迷子放送を流して貰ったり、ともすれば涙を溜める美しい人魚を笑わせる為に二人して奮闘しているうちに夜になった。
日が暮れきってからやってきた親御さんが半泣きになりながら娘を抱きとめたのをみてコラさんも安心したのか、親御さんに二言三言忠告してから帰った。
途中、車の天窓から見えた星がやけに綺麗だったから、二人揃って馬鹿みたいに歌いながら帰ったが、あれは純粋に人助けをしたあとの快感みたいなのが勝ったのだと思う。
でなきゃ、運転の為にシラフきってた俺があんな馬鹿なことはしない。

フゥと吐いた息が明け方の薄暗い空気に白く溶けて消えた。
それを見ている間にバスがやってくる。
フシュウとバスのエアサスペンションが起動して車高が下がる。
杖をつき足取りをふらつかせながらステップに足をかけるばあちゃんを見ながら、俺も乗り込んだ。





今日も同じような夢をみた。
いつもと同じように世界には雪が降っていた。
あの人は背中に背負った俺の脇の下に腕を入れて持ち上げると、一目で高価と分かる金銀の財宝が5分ほど入った木箱の中に俺をいれた。
俺は彼の顔を見る。彼の顔は青あざで腫れ上がり、所々に血を拭ったような跡が見られる。
彼は笑いながら俺の頭に手を置くと何かを呟いた。
俺は言われた言葉に応えるように木箱を叩く。何だかそれがとても嬉しくて楽しくて、自然と口角が上がるのがわかった。
また、彼が何かを言ってくるので顔を上げると、今度は酷く崩れた笑顔があった。ああ、これは知っている。現実のコラさんもこんな顔をする。夢の中でまで下手だなあ、相変わらず。
心ん中があったかくなって、嬉しくなって、あとで会えるって何か確かに思っていると、視界が黒くなっていく。
彼が、木箱の蓋を閉めたんだ。
ああ、コラさん。この箱が開いた時が、また会える時なんだな。

「…」
日が差している。遮光カーテンがいいっつったのに、あの人がドジって普通のカーテンを買ってきたもんだから、俺の部屋にはいつも朝日が薄布を貫いてやってくる。
今日も寝覚めはいい。至って健康。少し眠い。ベッドから足を下ろすと毛足の長いラグが俺の素足を包んだ。寝巻きから着替える為にぺたぺたと歩いてベッドとは反対側に設置されたクローゼットに手を伸ばす。
本当は知っている。あの夢の後、箱の外から人の集まる音が聞こえて暫く、暴行により人体の壊れる音と彼の呻き声、それから5発の銃声が響く。俺が何をしても木箱は開かなくて、次に映る光景は雪の中で横たわる血塗れの彼の姿だ。
俺は何処かへ運ばれる木箱の中で泣いて、泣いて、そこから逃げるようにどこかへ歩いていく。

彼とは別れる。もう、小学生の頃から見ている夢だ。
夢の周期はわからない。数日をかけて、記憶の糸をなぞるように辿っていく。それは定期的にくる。まるで数分で区切りのついた映画を繰り返し見せられているみたいだった。
あまりにリアルな夢だが、俺は雪国に行ったこともないし、マフィアのような奴らの元に、子ども時代に遊びに行ったことだってない。


週の中日だというのに今日は祝日だった。溜まっていた課題は深夜の内に終わらせたし、単位も取っていない。リビングに出て時計を見ると既に昼に近くなっていた。
メインテーブルの上にあるトーストに手をかける。サランラップを剥がすと温かかったであろうウインナーが冷め切っていた。
「起こしてくれりゃ良かっただろ」
今もソファで新聞を読んでいる人に不満を投げる。いや、目覚ましをかけ忘れた俺が悪いのであって、起こしてくれとも一言も言っていなかったわけだが。冷めて萎れたトーストを見たら、温かいうちに食べたかったと思ったのだ。
「おう。おはよ」
新聞から目を離し、一度こちらに顔を向けると彼は相変わらずの笑顔で俺に笑いかけた。
「…はよ」
高校あたりから、当たり前の挨拶がなんとなく気恥ずかしくて顔を見て言うのは憚られるのだが、声をかけなきゃかけないでこの人は指摘してくるから小声で返す。
今日も、この人は元気そうだ。
冷えたトーストは電子レンジに入れて温めて食った。

午後には、コラさんから偶には買い物にも付き合えと言われて二人で外に出ることになった。
「たまにはっつーけど、俺割と孝行してると思うぜ。この間も海行ったろ。」
親離れした方がこの人の為ではと思うほど、この年の男子にしては多く時間を割いていると思う。正直休みの日にいつも保護者とどっか出掛けてるとか、学部の友達には言えねえ。
「そうだな。お前に彼女とかできたらこんなに構って貰えなくなるだろうな。」
友達との約束はないのかと聞かれるが、この人が俺と居たいとか、思い出を作りたいって考えてくれてんのが分かるから、なんとなく断れなくて自分も頷いてしまう。学部に友達がいねえわけじゃねえが、同学年の所謂パリピみたいな行事やテンションにはついていけないから、これでいいとも思っていた。

マンションから5分ほど歩いて駅から電車に乗り込む。通勤ラッシュ程ではないが幾人もつり革に掴まっている中、俺たちも人混みを押し切って居場所を確保する。顔を上げるとこちらを見ているコラさんと目があった。俺も185センチはあるから低い方ではないしこの歳でまだ成長期のようで一年に1、2センチは伸びているが、それを差し引いてもコラさんは本当にでかい。彼は2メートルを超えていて、俺だって周りより頭一つ飛び抜けているけれど、この人は頭三つ分は飛び出しているからすぐに見つかる。
サイズの合う服がないのとよく頭をぶつけるのが悩みどころだ。今も、彼は上部に取り付けられたポールに頭をぶつけそうになるから肩を叩いて注意した。

マンションのある住宅街を離れてビル街に降り、医学書を見たいと書店を回ってから秋服を買いに大手のデパートに入る。夏服がセールになってたから、コラさんに見立ててもらいながら気に入った秋服と合わせて何着か買った。
そのまま地下に降って夕飯の材料を買うことになったけど、カレーを食いたいっつーコラさんと焼き魚が食いたい俺とで暫く言い合いになり結局二つとも作るって結論に落ち着く。材料を回りながらキャリーカートに乗せられたカゴの上に、食いたい菓子や摘みとレトルトまで乗っけてったもんだから最後はすげえ量になった。
レジで会計した時に、予想以上の金額とレジ袋の多さに流石に買いすぎたと思ったが、コラさんが同じタイミングでそう零したから二人で笑い合いながら帰路に着いた。

翌日の夢はごく普通の、何か、1日の記憶を整理するような一般的なものだった。目が醒めると同時に記憶から薄れていくような。
別にあの夢は断続的に見るわけじゃないから、多分あと数ヶ月もするとループのように周期がくる。またピエロのようなメイクを施した彼と出会い、海を渡っていくのだろう。自分の身近な人物の死に際を見るのはあまりいい気がしないので、夢の周期が過ぎ去ったことに少し安堵した。


「論文読んだぜ」
2限が終わり、次の授業までに荷物を纏め直そうと席を立った俺に、学部の生徒が何人か声をかけてきた。相変わらず凄えとか、砕けた調子で評価を述べられるのは、今年の初めから続けていた研究だ。軽いレポートを作るつもりで始めたものが数人の教授の目に止まり発表を勧められた。やいのやいのと騒ぎ立てる同期の世辞を笑って受け流していると、さっきまで教鞭をとっていた教授が講堂の階段を上がってくる。
「トラファルガー、朗報だ。」
「はい?」
相変わらず俺は大人ぶったクソガキで、あの人は俺に仕事の愚痴も漏らさず毎日を明るく振舞ってくれていた。

その日の教授の用件は、俺の論文が高く評価されたそうで学会に持っていきたいという提案で、実績を残したい俺はチャンスを逃す事もないと二つ返事で承認した。
俺はそれまでに増して研究室に籠もることが多くなったが、コラさんの帰りも元から遅いので、その点に関しては彼より先に帰っていれば余計な心配をさせずに済んだ。
それからも平穏に日々は流れていく。



「ッッッ………」
相変わらず、コラさんのドジで買い間違えた薄手の生地から昇りかけた朝日が俺を照らす。スヌーズにより再度チチチチチと音を立てる目覚ましの音がやけに煩く響いて叩き壊す勢いで頂点のスイッチを殴った。
また、夢を見た。あの夢の続きのように、明確な記憶をなぞるような夢を。
しかし、今日の夢は雪の中でも、マフィアの軍団でもなかった。何だか、何だ。
クソ、あいつは誰だ。
黒いコートに身を包んだ一人の男が自分のものを慰めていた。
「ぅ…ォ………」
今までの夢に出てきた人間ではない。では一体誰だ。彼のいた場所は何処だ。
反応しているのが嘘みたいだった。コートの男に反応したわけじゃない。夢の中で俺は、

「メシ」
「!」
思考の海に溺れていたから、平日に起こる習慣にすら酷くビビった。いつものことながら淡い金を光らせたブロンドの生首がドアに挟まっている。
「ノックしろっつってんだろボケ」
「んだよ。夢精でもしたか」
「するかアホ!!!」
手元の枕を投げると金髪が即座に引っ込んだ。俺の安眠を約束するふかふかの天使はドアにぶつかり無残にも床に落とされた。柔らかい衝撃に閉まりきらなかったドアが開いて揺れた。
フーフーと荒れる息を整える。

夢の中で俺はあの人の名前を呼んだ。
そうだ、あの黒いコートの男は俺だった。
「嘘だろ…」
本当に、嘘だろ。おい。なんでだ。なんでよりにもよって夢の中でのネタがあんたなんだよ。大学に綺麗所の女だっていくらでもいるだろ。本当に…勘弁してくれ。
「あぁぁ…」
末端の冷えた手を恐る恐る股に持っていくと朝勃ちとはまた別のものを感じて情けなさに本気で涙が出そうになった。エロい夢を見るのは仕方ない。繁殖により遺伝子を残すことを本能に埋め込まれた健全な男子なんだ。
ただ俺の名誉の為に言わせてもらうと、勿論、医学部として同性愛やセクシャルマイノリティに嫌悪感はないとはいえ、俺は至ってノーマルだ。確かにあの人のことは大好きだ。でもここでいう大好きは兄として、父として、友達のような感覚での好きであって、コラさんをそういう目で見たことは一度もない。逸物のついた自分と同じ毛深い男という性別に性的反応を示すとか、本当にありえない。信じちゃいないがなにか、お偉いそこらへんの神に誓える。

気になるのはこれが普通の夢なのか、それとも稀に見る、あの記憶の続きなのかということだ。
嫌に達観した頭で、普通の夢であれば良いなと思った。だって俺は、もしかしたら、あの夢を、実際にあった記憶なのではないかと思っていたからだ。前世なんてオカルトな考えを、揶揄われるとわかっていて周囲の人間に言うつもりはなかったが、出会う前からコラさんを知っていたから。出会った時期を考えて正夢でもないし、ただの他人の空似とは思えなかった。
「でも…」
これが、もし、あの夢の続きなのであれば、最悪、前世の俺は、幼少期に助けてくれた恩人で抜いていたということになる。
「…最低だ…」
本当に、最低だ。何度目かになる深いため息と一緒に、もう一度頭を抱えた。誰にも言わなきゃバレない話しだ。ただこれ、もしもコラさんにばれたらなにを言われるか。

「おい、ロー!なにやってんだ」
リビングから痺れを切らしたコラさんの声がとどいてきた。今にもドタバタと殴り込んで来そうな声色に、こちらに来られても困ると返事を返す。
「行くよ」
青い布団を剥いでラグに足を落とす。
思考を回している間に幾らか萎えたが、とりあえず落ち着ける為に便所に向かった。


今日はオムライスだった。そこいらが千切れたり崩れたり焦げたりしていたので、どちらかというとケチャップの混ざったメシとスクランブルエッグという感じがした。
コラさんは俺が合わせた手をスプーンに伸ばす間にまた面倒くせえ振りをしてくる。
「やっぱお前夢精してたろ」
いい加減にしろよこいつ。
「健全な男子だっつったろ」
「相手は?」
この人は割とこういう話しが好きだ。生々しい話しっつーよりはどちらかというと中高生の猥談程度だが、朝っぱらからこのテンションで話しかけられるのは低血圧の俺にとって労力を使う。
「言うか」
「んだよ、コラさんにかかれば意中の女子を一撃で落とすテクニックを教えてやるのに。」
ろくに彼女を作ったこともないくせによく言う。ただ、容姿も性格も良いこの人が売れ残り物件にされているのが、俺というガキを拾ったコブ付き感から来ていることは理解しているからあまり弄れないのが本音だ。
彼の発言を鼻で往なして、下手くそなオムライスを喉にかきこむ。
「お前モテてんだろ、聞いたぜ」
今日は朝からしつこくぶっこんでくるなと思ったのもつかの間俺はその情報源に嫌な予感がした。
「誰に」
俺は意図的に睨んだが、彼は全く動じない様子で顔を緩めながら続けた。
「キッド。」
だと思った。去年の学祭で保護者として見に来たコラさんとユースタス屋が息統合して俺よか仲の良い友好関係になっているのは知っていたが、あいつ余計なことを言ってないだろうな。
学部の中でモテているというのは、あながちウソではない。休憩時間に女子生徒に声をかけられたことは何度かあるし、世間一般の恒例行事となったバレンタインデーには貰うチョコの処理に困る程だった。だが俺はそれをどうとも思わなかったし、わざわざコラさんに言う程のことだとは思わなくて伝えてこなかった。別に、隠していたわけではない。
ユースタス屋は左手が義手の学年成績2位、クラス違いの男だ。幼少期に腕を失った際、腕の立つ義手師に作ってもらったそうでそれ以来医療を目指している。その成績とは裏腹に荒れた素行が同期の中でも度々話題に上がっていた。お互いあまり気にかけていなかったが、顔を合わせれば何となく張り詰めた空気が漂う。似た者同士、医大の中でトップクラス、成績優秀とくれば、まあ意識はする。
「言っておくが俺はそんなもんにうつつ抜かしてないぜ」
「いや、健全な男子なら抜かせよ。つーか抜けよ。」
アホか。この人と違い、俺はあまり猥談とか好きじゃねえんだ。
「照れてんのか」
「その顔やめろ」
コラさんは心底楽しそうにこちらを煽ってくる。こうなるから嫌なんだ。
未だニヤニヤと口角を歪める恩人の顔を見つめる。不意に意識から追いやっていた先ほどの夢が頭を擡げる。俺は無心で、いやそういった気持ちで暫く目の前の人を見入っていた。
「…なんだ?」
「やっぱねえわ。」
「は?」
相変わらず綺麗めな顔付きをしてはいるが、40を目前にしたオッサンだ。剃り残した濃いブロンドの髭は伸びているし、陽に当てられた肌は荒れていて、嫌でも皮脂だって年に合わせて乗っている。いやいやいや、これは正直、無い。

俺のセンサーが無事反応しなかったことに心の中で拍手とガッツポーズを送りながら、空になった皿に手を合わせると、隣の椅子に置いてあった学生鞄に手をかける。メインテーブルの椅子に腰掛け相変わらず首を傾げるコラさんを置いて玄関に向かった。

「行ってきます。」

なんであんな夢見たかな。






その日の夕方、学部成績がそれぞれの学生通知に届いた。端末でネット回線に繋ぐと数秒でそれは開く。
俺は一位。
ユースタス屋は二位だ。
なんてことない成績結果だが、それなりに気分が良くて授業終わりにカフェで美味いコーヒーとベーグルをテイクアウトして帰る。
日付が変わってから帰ってきたコラさんにそれを伝えると、コラさんは自分のことのように喜んでくれて、もう随分と身長も伸びきった俺の頭を抱えるようにして撫で回した。
痛いとか恥ずかしいより、俺も嬉しくて、コラさんが奮発して作ってくれたパーティーみたいな料理を食べた後も、その日は寝付くまでリビングに二人の笑い声が重なっていた。


電車を降りてから大学までのイチョウ並木が緑から黄色に頬を染め始めた頃、学祭も終わった俺たちの大学では来期のスケジュールが組まれクラス分けが発表された。早朝の冷え込みが酷くなったので、押入れから夏の終わりにコラさんと買った深い紺のダッフルコートを出す。
季節は秋に変わりつつあった。



「お前、今日誕生日だろ」
なんか欲しいものないか、と天辺を過ぎて帰宅したコラさんは靴を脱ぐのもそこそこに聞いてきた。
忘れていたわけではないけれど、この歳になって意識し過ぎるのも恥ずかしくてリビングの壁に掛けられたカレンダーに目をやってから「そうだったな」と生返事を返した。

「欲しいものとか、ねえから。」
彼は俺の返答を予測していたように少し息を飲んだ。
「お前一人の我儘叶えてやるくらいの財力、俺もあるんだぞ」
コラさんは俺が一歩距離を置いてることに気が付いている。俺も、この人におんぶに抱っこは嫌で、早く独り立ちしたいってのもあったからあまり金銭面で甘えるようなことはしてこなかった。
「既に我儘で医大の金出してもらってんだ。感謝してるよ。就職したら返す。」
ここで、この人を困らせないように、何か欲しいものでも言えば俺は保護者を困らせない良い"息子"なのかもしれないけれど、やせ我慢でもなく、元から物欲は強くないんだ。
「いやその気持ちは嬉しいんだけどよ。返すとかじゃなくて、今俺はお前の欲しいもんを聞いてんだろ。」
俺の欲しいものと言う言葉に既に記憶の片隅から消えかけていた数ヶ月前の夢を思い出した。恐らく性的欲求により見た夢だろうが、俺はこの人が欲しいのか。それが俺の願望か?ならここであんたが欲しいとでも…って、
「ねぇよ。」
んなキモいホモ本みたいな展開ありえねえと思って、自分の妄想を嘲笑う気持ちで出た言葉を、目の前の人はプレゼントの返事と受け取ったらしい。

コラさんは持っていた鞄をリビングの隅に置き、上着を脱ぐと、ソファに座る俺の方に視線を向けて話しを続けた。
「お前って女の子とか浮ついた話しもしねえだろ。俺は心配してるんだ。」
さっきまで考えていたことがいたことだったので正直びびった。誤魔化す為に笑えばいいのか不機嫌にでもなればいいのか咄嗟に判断が出来ず顔の筋肉が変な風に歪んだ。後ろめたい妄想をしていたこと、バレたかもしれない。
「勉強も今詰め過ぎなんだよ。目の下の隈、全然取れねえだろ。」
コラさんはソファの背もたれに右手を置き顔を覗き込んできた。この人はいつまで俺を子ども扱いする気だろう。俺はもう家族を失って立ち直れねえガキじゃねえ。そう言い返す為に彼をみると、思いの外本気で心配している目とぶつかった。その目を無碍にも出来ず無言でいると空いた左手で頭を撫でられる。
「医者の不摂生は信用落とすぜ。」
ここでそういう煽りを入れてくるのが憎らしい。図星だったので余計に居心地がわるかった。このまま言い負かされるのはあんまりなので煩えと悪態を付いてソファを立ったが、言ってしまってからそっちの方が子どもっぽかったと顔の熱が上がるのが分かる。早足で自分の部屋に戻ると荒々しくならないように慎重に、後手にドアを閉めた。
熱くなった頭を抱える。遠の昔に声変わりした低い声で「うぉぉ」みたいな呻き声が漏れた。体ばかりが大きくなりやがって、精神面の成長は全然追いつかねえ。今日からは22だぞ。もう髭も生やしてんのに、格好つけてぶってんのがあの人には全てばれていることだろう。それを含めて未だ子ども扱いしてくるのだ。
先ほどコラさんは浮ついた話がないと言ったが、それはあの人に話していないだけで俺は童貞でもないし、ちゃんと彼女がいた期間だってある。俺はノーマルで、至って健康な男だ。

「…勉強すっか。」
欲しいものなんてやはり無い。変な方向に向かいそうになる思考を、何年も使って古惚けた木製のデスクに座ることで落ち着かせた。


日が昇り登校したその日付け、俺は学校で女子生徒からなんの恨みかという量のプレゼント攻撃を受け、学部の教授に笑われることになる。






その日、俺が帰るとソファに数冊の雑誌が広げられていた。
何とは無しに拾い上げると幾つかのページに付箋が貼られている。
ロシアのバイカル湖。イタリアのドメニコ会修道院。ペルーのマチュピチュ遺跡。付箋が付けられているのは有名な観光地スポットから平原まで世界遺産ばかりだ。
「おお、ロー。戻ってたのか。」
風呂から上がってきたコラさんは肩からタオルを掛けているだけで、他には衣類を身につけていない。
「履いてこいっつってんだろ」
いくら男同士とはいえマナーってもんがある。見たくもねえもんぶら下げてこられたらいい気はしねえと何度も言っているのに、この人はいつも風呂場に着替えを持っていくのを忘れる。
あと髪。びちょびちょだ。床が濡れる。
「牛乳くらい飲ませろ」
「アホ、拭いてからにしろ」
コラさんが冷蔵庫を開けて牛乳を飲んでいる間にも足元には泉が出来てる。誰かこの人に気遣いって言葉を教えてやってくれ。彼は乾けば問題ないと思っているようだが、フローリングが痛むんだよ。
「どっか行くのか」
「ああ、お前と一緒にな。」
「はああ?!」
思わずでかい声が上がった。コラさんは口元に指を当てて静かにしろと訴えているがあんたにだけは言われたくない。
「聞いてねえぞ。」
「うん。言ってないからな。」
これから予定を立てるつもりだったということか、なんにせよ急に数日の予定を開けろと言われても難しい。
「俺、今度発表する論文あるから行けねえぞ。単位落としたくねえし。」

コラさんは困ったように薄い眉を下げたが、んな顔されたって無理なもんは無理だ。
牛乳を飲み終わると彼は口元を拭いて部屋に着替えを取りに行った。戻ってきた時には冬物の寝巻きに身を包んで、ご丁寧に足にも冬用の靴下を装備してきた。もう一度冷蔵庫に向かい、今度は麦茶を飲む。
俺は彼の行動を横目に見ながら、チェックの入った旅行雑誌に目を通していた。

水分の補給が落ち着いた頃、リビングのカーペットにその巨体を転がして、彼はテレビのリモコンを握る。
小さな起動音とともに映像の流れ始めた液晶には、深夜にお誂え向きの安っぽい芸人と若手のアイドルが映っていた。
「うーん、今すぐじゃなくてもいいんだ。」
彼はテレビから目を離さずに言葉を漏らしたが、部屋には俺とこの人しかいないから、きっと、俺に言っている。
俺はうんともすんとも言えずに雑誌を捲った。薄いフルカラーのページを捲る音と、つまらねえバラエティ番組から流れる笑い声が余計安っぽく聞こえた。
「いつか世界を見て回ろうな」
くらりと、目眩がする。俺はその言葉に軽い既視感を覚えた。
雑誌から顔を上げると、コラさんはいつの間にか俺を見ていた。照れたみたいな、可愛い息子を見るみたいな目を、その優しい目を、俺は何処かで

「なにすんだ」
コラさんがカーペットを這いずりながら、長い足をソファに座る俺の膝の上に乗せた。んなことされたら雑誌が読めねえ。別に、それ程興味があったわけではないが。この人の無言の構って攻撃に屈するのは釈で、普段と変わらず悪態を付いて逃げた。
「やめろ、オッサン臭い足くっつけんな」

いい加減子離れしろよ。と、言えない自分はこの人の下手くそな愛情が嬉しいんだろう。














『トラファルガーさんのお電話でよろしいでしょうか』
年が開けていよいよ都心部の冬も佳境に入り始めたその日、俺は紺のコートに突っ込んだ手でホッカイロを握りしめる。
反対のポケットに沈んだスマホ宛に、未登録の番号から電話が掛かってきた。
「はい、あの、誰からこの番号を」
その日は
「え」
あの夢の日のような、雪が降っていた。






「何故俺に一番に連絡を寄越さなかった!」

白い壁面と床が白熱灯の白を反射している。白は嫌いだ。あの人を奪っていくから。
集中治療室のランプが数メートル先に見えていた。あのドアを開ければあの人に会えるのか。幾人もの医療班と看護師に抑え込まれながら、ガラス戸を揺らすほど叫ぶ。電話の主は、コラさんの職場からほど近い大学病院からだった。
俺のパーカーを握る邪魔な男の顔面に肘鉄を食らわせて殴りかかる。一歩踏み出して馬乗りになろうとした所を更に三人の男に取り押さえられた。その中から一人に右手の動く範囲で襟首を掴み喰い殺すように睨みつける。
「俺なら出来るッ!コラさんに会わせろッ!!」
首元を掴まれた男は本気で怯んだようだったが、廊下の奥から大学で何度か教えを請うた先生が、ゆっくりとした足取りで歩いてきた。俺は殺意を持ってもう一度同じ言葉を発する。先生は、眉を潜めて、学校では聞いたことのない声色で俺に叱咤した。
「医師免許も取得していない身で何を言うか!落ち着けトラファルガー君。」
落ち着け…落ち着けとはなんだ、コラさんが、俺のコラさんが、また…こいつは、こいつは誰だ。何を…。俺はこの能力であの人を救える、能力?なにが…
「ゥ…グッ……」
グルグルと目を回しそうな、吐き気、吐き気、吐き気。ああ、吐き気だ。この感覚を、俺は知っている。あの人を俺から奪わないで、ください。絶対死んでほしくねえ人なんだ。本当か?死んでほしくない。死んでほしくない。死んでほしくない。誰に?俺のコラさん。コラさん、コラさん、コラさん。俺を庇って撃たれた、ああ…違う、あんたは誰だ、誰だ、俺は
「俺は…っ」
俺は…………ッッ
これでも学年トップなんだ…何か…何か…
「先生………」
ただ、死んでほしくない人なんだ。



「何か…出来ることは…ないですか」



壊れたように、涙が止まらなかった。


















結局、夢のことを、俺はあの人に一度も言えなかった。
あの人は知っていたのかな。知っていたら、言ってくれただろうから、彼の記憶は無かったんだろうか。

「全部、思い出したよ。」
あれから三日が経った。結局、取り押さえられた看護師達に迷惑をかけただけで終わり、暖かいココアまで差し入れされて、俺はずっと、治療室の前に座っていた。
その間、酷い吐き気と目眩の中で、色々な記憶が繋がっていくのを感じていた。途中、何処から何処までが今の自分の記憶で、何処からが昔の記憶なのか、境目がわからなく成る程、それはリアルに紡がれていった。

『フレバンスの生き残りだ!』
『てめえらそれでも医者かあ!!』
『やめろコラソン!』

あんた、ドジ治らなかったんだなあとか。沢山、もっと、沢山言いたかった。また会えて嬉しいと伝えたかった。
せっかく会えたのに、忘れちゃってるんだもんな。

彼の葬儀で何人かの海兵にすれ違ったが、あの人はあまり仕事の話しをしなかったから、私服を着ている人は流石に見分けが付かないし、俺には知らない人ばかりの葬儀だった。

一人の海兵から、緊急連絡に俺の番号があったと聞かされた。彼の希望により付いた任務で、北の海で今も海賊として名を馳せるファミリーが拠点を広げる為の諍いに軍として乗り込んだ際銃弾を撃ち込まれたこと。銃弾は心臓のすぐ側を貫通していたこと、その他にも暴行を加えられ、彼の体は連れ帰るのが限界だったことを。深い事情までは立ち入れなかったが、彼が自ら望んで向かったのあればそのファミリーというのは間違いなくドフラミンゴなのだろう。奴も同じ時代に生まれていたのだ。だとしても、彼はまた、たった一人残る血縁の兄に殺されたのか。なんてことだ、この世に運命や神があるのであれば、あの人になんの恨みがある。それが天竜人の血が犯した罪なのか。彼は何度命を与えられても、神に嫌われる定めにあるのか。

「なあコラさん、お願いがあるんだ。」
俺は何度生まれ変わっても、あんたを救えねえのか。あんたに無償の愛を貰っておいて、のうのうと生きるしかないのか。
「まだ、誕生日プレゼントもらって無かっただろ。」
俺の頭を撫でてくれよ。学部で一位取った日みたいに、抱き寄せて。飯も、美味しくなんてなくていいから、二人で並んで一緒に作ろう。頼むから、もう一度、

「偶の我儘くらい可愛いもんだって、笑ってくれよ…」


それから暫く、俺のDの血と、あんたの血の生業について考えて、考えたって仕方ないと知りながら、体が感覚を無くすまで、あんたの骨が埋められた石の前に立ち続けた。




「医師免許もねえのにヤらせろって詰め寄ったそうじゃねぇか」
一週間程学校を無断欠席した翌週、ユースタス屋が声をかけてきた。
「兄貴さえ守れねえんじゃなんの為に医者目指してんだって話しだ。」
コラさんに注意を受けていた間、無断欠席なんてしたことが無かったから、初日は学校から確認の電話がかかってきたが、俺が言葉少なに事情を話すと数日は休めと言われたので教授の言葉に甘えさせてもらった。生徒にまでは欠席の理由を話して居なかっただろうが、何処から聞いたのか。コラさんを引き取った病院がこの大学の所属だったから、誰かあの場にいたのかもしれない。
こいつは俺とコラさんを義理の兄か何かと思っているようだが、俺と彼の間に法的な血縁関係は存在していなかった。
「老害共を黙らせてえならさっさと免許でもなんでも取っちまやぁ良いんだ。ハッ」
男は言いたい事を吐き出したのか、俺を鼻でいなすと放つオーラを隠そうともせず周りの生徒を威嚇しながら立ち去った。
ユースタス屋はコラさんのことを気に入っていたから、純粋に情緒が乱れているのかもしれないが、何にせよ気性の荒いあいつが励ましに声を掛けてくるとは思わなかった。
「下手かよ」
普通にライバル視してんだから折れんなって言えばいいだろうが、まあ、そういうタマじゃねえってことは知ってる。
別に言われなくても止めたりしねえ。俺の夢は、あの人の願いでもあったんだから。
その後も学部の友達が入れ替わり声をかけてくれた。気を遣われるのが尚更辛くて、便所にいくふりをして教室を出た。

暫く校内を歩いていると、教室に戻る為の2階廊下に大きな人だかりが出来ていた。近づいてみれば人だかりの元凶は自分の教室であることが分かって、このままでは教室に入れないので集団の後方に立つ生徒に声をかける。
「何かあったのか」
「ロー、どこに行ってたんだよ。あのジイさんがお前を探してるって」
俺を。自分を探すような人物に検討が付かず頭を悩ませたものの、俺たちの会話を聞いていたのか円の中心から名を呼ばれる。
「お前がトラファルガー・ローか」
現れたのは半袖に下駄という季節外れの私服に身を包んだ図体のデカい爺さんだった。
コラさんと同じくらいデカい。周りの生徒は正体不明の巨体ジジイに距離を置いて野次馬根性丸出しに成り行きを伺っている。白く染まった頭はアフロみたいだったし編み込まれた長い髭は結ばれ、一直線に降りていた。
「トラファルガーは俺だが…あんたこそ誰だ。」
群れをなす同級生共の間を掻き分けて数歩前に歩き出ると、その大きさがよくわかった。顔に刻まれた皺とその堂々とした立ち振る舞いから、何処かのお偉いさんなのだろうと踏んだ。
「センゴクと言えば分かるか」
「あんたが…」
"智将センゴク"海軍大将であり、コラさんの義父。大恩人としてコラさんからよく話しは聞いていたが、会ったことはなかった。

知っているなら話は早いとセンゴクは俺を校庭の隅に連れ出した。見知らぬ巨体のジジイに連行されるような顔をした俺の組み合わせは当たりの注目を引いたのか、廊下を歩く間知らない奴らにも始終見もの扱いされた。
暫く階段を降りてセンゴクが立ち止まったのは人気も少なくなった校庭の正面玄関からほど近い、木と植え込みのあるベンチだった。昼前というのもあり人気はすくないものの、全くないというわけでもない。3限からの生徒が何人か登校してきているのが見えた。
「なんの要件ですか。人目を気にするような案件なら近くにカフェがあります。」
案に俺は場所を変えろと提案したつもりだったが、それは一言で切り捨てられた。
「いや、私は手紙を渡しにきただけだ。」

本当は葬儀の時に渡すつもりだったが顔を知らない為見つけられなかったと前置きをして、センゴクは胸元のポケットから小さく四つ折りに畳まれた紙を取り出した。それは所々端の破れた、ハガキサイズの紙だった。言葉もなくこちらに伸ばされた皺の寄った力強い手からその紙を受け取る。
幾つかのシミが気になったが、その後のセンゴクの発した言葉に紙を広げる俺の手が震えた。

「ロシナンテのものだ。」
軍に救出されたあと意識のあるうちに書いておいたもののようで。それからセンゴクはお前宛だ、と付け加えるように吐き出すと鼻元で止まる丸眼鏡に手を当てたまま俯いた。

情けなくも震える指は、この悴む寒さからか。簡素な、シミと皺だらけの紙に引かれたどこか幼さの残るその文字は、確かに俺の愛した人のものだった。


-約束守れなくてごめん-

-愛してる-


「ッ…ァア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!!!」
俺は何度あんたに助けられるんだ。何故俺はあんたに伝えられない。約束なら守ってもらったろ。一緒に住んでくれたじゃないか、あんたは全部知ってたのか。その台詞を、どんな気持ちで書き溜めた。
校庭に長く響く俺の叫びに、いつまで経っても、返事は返ってこなかった。






あれから季節が巡って、俺は研究過程を主席で合格し24歳になった。

「これが紹介状だ。向こうに着いたら先生によろしく伝えておいてくれ。」
この大学に入ってから5年間、お世話になった教授へ感謝を述べて、手渡される紙を両手で受け取る。
「全く、君が海に出ると言ってきた時には驚いたがね。どんな心情の変化だ。」
「俺は何も知らない。もっと世界を知りたいんです。」
あの日、自分の無力さを実感した。13歳であの人を失った時から結局何も成長していない。いつも彼が亡くなってから、俺は大切なものに気がついてばかりだった。

記憶は全てが繋がったわけではない。フレバンスの生き残りだった俺はドフラミンゴの元に転がり込んだあと、コラさんに命を救われ海賊へ。王下七武海という政府公認の役柄に所属しドフラミンゴの首を狙っていた。
だが、記憶には靄がかかったように曖昧で、俺の周りで憎んだり殺したり笑いあったりする奴は、コラさんと、俺と、辛うじてドフラミンゴの容姿をイメージできる程度だった。
もしかしたら、記憶に関する人物に出会えばもう一度掴めるかもしれない。今は収容所送りになったドフラミンゴは北の海域にいた。それならば他の奴らがこの世界のどこかに生きていてもなんら不思議はない。
そういえば繋がった記憶の中で、分かったことがもう一つある。あの日見た夢、俺はずっとあんたと共にいたんだ。あんたを失ってからの13年間、俺の存在はあんたそのものだった。それは恋愛よりも、崇拝に近くて、
今の御時世に刺青なんてほったら、あんたは怒るだろうな。


あれからなんだかんだでセンゴクさんは俺に目をかけてくれていた。
あの人が亡くなった今じゃなんの関係もないのに、律儀な人だと思う。

「船より飛行機の方が安全だぞ。」
苦学生だし、今の時代飛行機の方が安い。安全面でも至極真っ当な意見だ。頬に刻まれた笑い皺を見ながら、世話焼きな所がコラさんに似てると思った。
「大丈夫です。俺、昔海賊だったんで。」
センゴクは俺の言葉の真意を探っているような顔をしたが、突然こんな返しをされればそんな顔にもなる。
深い意味はない。ただ、少し、あんたが人生の大半を注ぎ込んだ海ってもんに触れていたかったのと、その上に立つことによって掴みかけた俺の記憶の糸を引き寄せられれば良いと思った。




家に戻り、最後の荷物を纏める。
数年間、コラさんと過ごしたマンションは大きな家具を残して綺麗サッパリ片付けられていた。
色々な所にあんたとの思い出がある家だが、それも今日でおさらばだ。俺は、何も忘れるわけではない。父から、母から、妹から、そしてあんたやこんな俺に声をかけてくれた友達って奴らから。きっと産まれる前も受けていた大きな愛を持って、自由に生きるんだ。
ドアノブに手をかける。
ノブを回すとがちゃりとキーの外れる音がして、隙間から光が漏れてくる。それは俺を包む暖かい背中。

本日、天気は快晴。出航日和。


「行ってきます。」

青空に帆を上げろ。夢に向かって舵を取れ。

風向きは、追い風。





そして俺は大海を知る。


2016.12.27

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