■朝日



生命を司る大樹が地に堕ちたその日、この世界の多くの命が失われた。
失ったものは余りに大き過ぎて、背負う責任の重みに折れそうになりながらも、彼は立派に立ち向かった。
邪悪はその息を潜め、空に再び葉が芽吹き、清らかな水が流れ出した今も、動き出した時は以前と同じとはいかない。

生きる事はこんなにも過酷だ。
目を背けたくなる世界に大丈夫だと言い聞かせながら、
強く、それでも前を向いて。



切り裂かれたカーテンに指先を滑らせると、土ぼこりを被っているのかべたついた汚れが指を汚した。幾重にも重ねられた美しい刺繍は無残にその柄を崩す。
辛さに目を逸らせば、湿気の残る広間に広がる赤い絨毯は、誰のものとも付かない血の跡を重々しく沈みこませている。
黒く染み込んだ血は、この城の兵士のものかはたまた知らぬ貴族のものか。
どちらを向いても、まるでその日の悲鳴が、呻き声が、この耳に響くようだ。

もう数ヶ月前の事。今は天に向かい種を付ける木々が、美しい花を満開に広げた日、私達を混沌に貶めたその命が、空の城と共に勇者の手によって葬られた。
それによって、自分にかけられた16年の呪縛も解かれたように思えたが、白銀の鯨の背に乗り目にしたロトゼタシアの土地を見て、色濃く残る魔王の爪痕に、久しい家族の元への帰郷も晴れ渡る心のままで過ごす事は出来ずにいた。

居場所を無くした我々の追われた先"最後の砦"とその名を高くはためかせ、デルカコスタの闇の中で民の救護と保護に尽くしてくれたイシの村の人々は総じて優しく気立ての良い者ばかりで、王国が滅んだ今、多くの難民に生活の場としてその資財を提供してくれている。
長い戦いの末ようやっとその心と肉体を取り戻した父とデルカダールの兵と共に、継ぎ接ぎの双頭の鷲に誓いながら、償うように、心からの感謝を伝えるように、日夜復興作業に明け暮れる日々だ。
そんな折、洗濯に出た夕刻過ぎの川縁で疲労した兵士から聞いたあの日の悪夢。
しゃくり上げる身体を堪えるように抱き締めながら、消えない恐怖に涙を流す兵士の姿を見て、その国の姫である自分が当事者で無いこと、痛みを共有してやれないことを悔やんだ。
頭では理解したつもりでも、何故あの日自分は国にいなかったのか、一人でも多くの国民を守りたかった、何故私ばかりが生かされるのかと心が騒ぐ。
兵士の言葉を聞くだけでは、その場凌ぎの言葉で慰めることしか出来ず、自分の言葉の軽さに身を焼かれるような思いがした。
少しでも、皆の心に寄り添いたくて、私からかける言葉を探す為にも、どうしてもこの目で見たかった。
見張りの兵には申し訳ないが、草木も眠る頃、居ても立っても居られなくなり、皆が起き出す前に戻れば騒ぎにはならないだろうと砦を抜け出して来た。


暗く広い廊下に足音を響かせると、食堂に辿り着く。
緻密な彫刻が彫り込まれた長く大きな木製の机に、美しい大理石の床。記憶を彩るそれは今、木屑と割れた泥の地面にその姿を変えていた。
ユグノアの悲劇の後も城の者に長く愛用されていただろうインテリアが、大樹の崩壊までこの城で働いてくれていたのだと思えば、家族の亡骸を見るような悲しさが胸に押し寄せる。
幼い頃、大理石の滑り心地を気に入って走り回っては侍女を困らせていたこと。周りを困らせる度、王族の職務に忙しい父が厳しく叱ってくれるのが嬉しかったことも、悲しくて泣いた日もあった。
栄華の名残りに一つ触れる度、幸せな思い出が溢れては消えるようだ。

「あの頃食べたバターケーキ、美味しかったな。」

息を零すように吐いた言葉は、歪んだシンクに落ちて流れた。
小さい頃大好きだった甘いクリーム。料理長の横に滑り込んでは試食という名の摘み食いをさせてもらったこと。興味があると覗き込めば素材や作り方を一から説明してくれたコックのお姉さんも、あの頃溢れていた笑い声も今は無い。
昔の記憶を辿りながら一歩一歩歩いていくと、いつの間にか英雄の私室の前まで来ていた。

その大きな黒い扉には、大きな爪で切り裂かれたような跡が残る。
『私はこれ以上民を…家族を、失うわけにはいかないのです…!』
いつか旅の野営で、彼から聞いた悲痛な叫びが頭に響いた。
零れ落ちる言葉が、まるで涙の様だった。

彼は今でも、毎日のように地方を回っては、その足で命の大樹の崩壊後の生き残りを探したり、亡骸に墓を作ることを繰り返している。
それはまるで、絶望の中の微かな光を探すように、来る日も来る日も。
人柄と強靭な強さを合わせ持つ英雄の傲り高ぶらない姿は、沈みがちな空気の中で多くの民の模範となっていた。
皆が彼の背中に光を見ている。

「見つけましたぞ。」

ドアノブにかけようと緩やかに上げた手が止まる。
先ほど反芻したものと同じ声。初めに私の不在に気がつくとすれば彼だろうと、心の何処かで確信があった。
廊下から滑らせた視線の先に魔物も逃げ出す形相でその将は立っていた。
広場に繋がる階段から、残った段数を大きな歩幅で越えると、その重苦しい甲冑の音を響かせながら、迷わずこちらへ歩み寄る。

「一人で出歩くなどお辞めください。」

数メートルの距離を開けて、立ち止まる。
説得する時も、引き止めようと声をかける際も、必要以上に近寄らない彼に安心した。
勿論警戒も、彼に対する恐怖心もないが、臣下として一線を引く彼の忠義がいつになっても崩れないことが、こんなにも不安定な心を落ち着かせてくれるとは、一心不乱に魔王の打倒を考えていた頃には気が付かなかった。
口を閉ざしたままの私に、彼は続ける。

「いくら魔王を打ち倒したとはいえ、これだけ城内を破壊されていれば脅威は魔物のみに止まりません。」

確かに一時の恐怖は去ったかもしれない。
世界を覆っていた雲は晴れ、緑は命を吹き返した。それでも、魔物の凶悪化が解かれたというだけで、今も外には邪悪な闇が蔓延している。
魔王を打ち倒したと浮れる人間達の首を狩るなら今と、息を潜める闇の存在が無いわけがない。
人々の笑顔と確かな安全が約束されるまで、神聖な水と風の流れるロトゼタシアが帰って来たとは言い難い。
警戒心を緩めない事は、私たち、ひいては国民を守る為に重要な意識であり、王女である私がそれを蔑ろにすべきではないと言うのだ。

余り大きな声を出す気力が無く、彼の近くに寄ろうと歩を進めると、魔物の力か、老化しヒビの入った大理石の床が緩い音を立てて崩れ始めた。と思うと同時に、甲冑の騎士に腕を引かれる。

「危のうございます。」

闇に溶け込みそうな黒塗りが、月明かりに反射して輪郭を浮かび上がらせている。
「どうしてもというのであれば、兵にお声掛けくださいませ。姫様に何かあっては、王に面目が立ちません。」

護られるばかりではない事も、強くなった事も知っているだろう彼は、腕を引く手を、安全の為にと離さない。
足場が崩れたことも、培った経験を持ってすればなんてことはないはずなのに、先ほどまで響いていた亡霊の念が、彼の手から薄らいでいくような気がして振り払えなかった。

「ありがとう。」

見つかってしまったことは気不味いけれど、今は迎えに来てくれた彼の暖かさに感謝した。

「そうね、下見はこのくらいにして、今日は戻る事にするわ。」

彼に言われたように落ち着いて周りを見渡せば、広間に見える巨大な支柱は何本か壊されている。射し込む月の光に、やっと天井の大穴に気が付いた。
これでは、確かにこの建物自体もいつ崩れるか分からない。

「明日は兵を連れてきましょう。数人で、被害の状況を確認します。」

砦の西に続くナプナーガの密林から強力な魔物が減少し、サマディーの国から支援物資が届くようになったことでやっと、十分な砦の食料を確保できたのがふた月前。
窮困は食料問題のみに留まらなかったが、各国地方からの救援が安定し、イシの村の復興の目処が立った今ならば、瓦礫と化したこの王国の再建の為に被害の範囲を調べ、把握する余裕も出てくることだろう。



迎えに来てくれた彼は、警戒を解かないままに私の前を歩く。
彼の背中を追う形で城から出ると月明かりに照らされた枯れ木の間から、白い小さな花が幾つか顔を覗かせていた。

「馬は」
「ないわ。歩いて来たの。」
だって、ほら、馬なんて使えば貴方はすぐに起きてしまうから。

グレイグは分かっていたとでもいうように、愛馬の手綱を取ると、呆れた顔も見せずに手を伸ばしてくれた。
その手を取って、彼の相棒に跨る。
背後から彼の黒い甲冑に手を伸ばすと、夜風の冷たい空気を掻き集めたみたいな温度が指先を刺した。
蹴られた黒馬が一声嘶いて駆け出していく。闇夜の風を切るように。

「何故、お一人で城に向かわれたのですか。」

揺れる黒馬の背の上、私より幾分か高い位置から落とされるそれは素朴な疑問だったのかもしれない。
怒っているような声色は無いが、焦燥感に駆られた行動で、自分でも正しい判断で無かった事が分かるだけに、説明しても彼は納得しないだろうと出来るだけ平易な言葉を選ぶ。

「私の、家だから。」

ホメロスがいなくなった後、総指揮を取るグレイグはいつも身を粉にしてこの国に尽くしてくれている。
義に厚く愚直な彼の気苦労は計り知れない。
何でも自分で抱え込んでしまう人だから、これ以上の負担はかけたく無いと思いながらも、寛容な彼の心に甘えてしまう自分の行動に、申し訳ない気持ちで回す腕に力を込めた。


数日前、幼子を抱きかかえてこの男は帰還した。

いつものように見回りに出た彼は、デルカコスタの北東部に足を進めた先で、枯れ井戸の中、泥と魔物の血の混じった水を舐める少女の音を聴き取った。誰も気に止めないような、草の生い茂る奥の崩れかけた枯れ井戸からすくい上げた命を抱いて、彼は命の音だと言った。
生きようとする音がしたと。
よく、馬の蹄と、その重い鎧に疲労の取れない体で、その些細な声を聴き取るものだと皆が感嘆を漏らしたが、砦に逃げ延びた医師に診てもらった少女の容態は絶望的だった。
片腹を抉られ、視力も無く、よく此処まで生き延びた、先は長くないと聞かされたグレイグは医師に頭を下げると無言のまま簡易テントから出ていった。

グレイグに声を掛けようと自分も追ったが、川縁から逸れた小さな洞窟まで追いかけた時、その奥で声を殺して泣く彼に、何と言えばいいか言葉が見つからず、彼が動き出すその時まで、岩陰に隠れてしまった。


「余りご自分を責められませぬように。」

王女として行動を弁えよと言われる事に身構えていたが、グレイグからの言葉は、存外優しさと考慮に包まれていて、彼にその言葉を返したかったが、まだ答えの見つからない身では何も言えないまま、帰路は過ぎてしまった。

砦に着いてからは持ち場へと戻るグレイグと分かれ、私は砦の奥、重病人が集められているテントへと向う。

まだ薄暗いとはいえ、砦では何人かの人が既に起き出して、朝食の準備を始めていた。
入り口にかけられた薄い布を上げる。
簡易ベッドの上の少女は16年前の私と同じくらいの年齢だった。
日に日に弱っていく姿を見るのは辛かったが、毎日顔を出した。

「身体はどう」

「…」

「今日はね、外にお花が咲いていたから、摘んできたの。ね、いい匂いでしょう。」

先ほど城の外で摘み取った白い花を縒った茎で束ね、小さな花束にしてその手に乗せる。
近くに置かれた木製の簡素な椅子を引き寄せて彼女の横に寄り添った。

「もうね、陽が射すようになったのよ。雲が晴れたの。魔物も居なくなってね、小川の水が綺麗よ。元気になったら、一緒に行きましょうね。」

嘘だ。以前の勢いは無いとはいえ、凶暴化の解かれた魔物はまだ多く生存している。川の流れは止まることを知らないが、堕ちた大樹の影響で大きく崩れた地盤や建物が瓦礫のように積み重なり、外も、勿論この砦も、お世辞にも美しいとは言えなかった。
だが、瞳に映らない彼女に、あと数日と言われた彼女に、少しでも希望を持って貰いたくて、無理をしてでも明るい声を心掛けて話す。
日課の様に繰り返すこの行為に、罪悪感が募らないと言えば嘘になる。
重い気を振り払うように、少女の手を握る。
何か、明るい話題を探そうと開いた口から、弱音ばかりが零れそうになって、すぐに口を閉じた。自分の無力さに情けない程涙が出そうになる。

「光が」

数秒、耳を疑った。
少女がこの砦に運ばれてから、初めて聞いた声だった。
可憐な子どもの声とは思い難い、嗄れたような、掠れた声だったが、何よりもその音が嬉しい。
よく聞きたくて、次の言葉をゆっくり待つ。

「光が、見えるの」

喉を傷つけているのか、ひゅうひゅうと風の通るような音と共に、少しずつ、少しずつ彼女は言葉を選んだ。

「お父さんと…お母さんが、目の前で、大きな魔物に食べられた」

その血が目に入って、何処かに投げ出された。

それから、何処かに堕ちた私は
ずっと、ずっとお父さんと、お母さんのことばかりうかんで

温かい血が、わたしの顔に飛んできたことが、ずっと、もう、何日経ったのかもわからなくなるくらい、何度も、何度も。


彼女は泣かない。感覚が麻痺しているのか、自体を処理しきれていないのか、淡々とその記憶を紡ぐ。大樹が落ちた後、多くの死者が魔物にその姿を変えたが、死んだ者も残された者も、私達はなんて残酷な中に立たされているのだろう。


「でも、光が見えるの」

気が付けば誰かが私を抱き締めてくれた。真っ暗な闇に、暖かい光が見えるのだと話す。
彼女の言う光が、自分には良く分かる。

「その光を、見にいこうか。」



明け方と言うには些か早過ぎる時間、見張りの兵が数人、眠い目を擦りながら立っている。砦の中心部で、彼は指揮を取っていた。

「姫様」

気が付いたグレイグが地形図から顔を上げて駆け寄る。
彼はいつ寝ているのかと、薄暗い空気の中窶れた顔を間近で見て痛く思った。

「どうかなさいましたか。」

「この子に陽の光を見せてあげたくて」

ブランケットに包まれた少女の顔を見せると先日医師に言われた言葉が胸を締めるのか、グレイグは一層眉を寄せる。悲壮に溢れた顔を見ていられなくて、駄目だと思いつつも目を逸らしてしまった。

「は、ご覧の通りまだ陽は出ておりませんが、日の入りまではあと数分かと。」

職務の邪魔にならないようにと簡潔に、意識を取り戻したこと、彼女が先ほど初めて喋ってくれた事を伝えると、彼はまるで失った宝物を見つけた少年のような顔で綻んだ。

「良かった…」

泣きそうな顔をして、グローブのまま少女の頬に触れると、腕の中の彼女はそれに応えるように身動ぐ。

「…光」

初めて耳にする彼女の声にグレイグは笑う。
一度、その単語に不思議そうな顔を見せたが

「ああ…」

ややあって、グレイグの背後に暖かな光が射し始めた。

「ほら、陽が出始めたぞ。」

空気中の塵に熱をちらつかせながら、柔らかな日差しが砦に降り注ぐ。
それは冷えた夜の空気を暖め、闇を払い、度重なる過労に舟を漕ぐ兵士に、悪夢に追われ呻く民に、枯れ墜ちた草木に、生きる生命の全てに等しく朝を運ぶ。
グレイグは、彼女に陽が当たるようにとその大きな影を横にずらした。
胸に大きく描かれた双頭の鷲が黄金を揺らめかせる。

眩しいと思う。
そうだ、こんなにも眩しい。

「声が聴けて嬉しい。ありがとう。」

その目にも、届くだろうか。



職務の残るグレイグに別れを告げ、昇る朝日を眺める間に腕の中の少女はまた深い眠りについた。起こさぬよう気を遣いながら彼女を簡易ベッドにおろしテントを抜けると、他の医療用テントにも足を向ける。
以前に比べて重病人はかなり減った。それは回復した者のみに限らず、この天幕の中で命を落としていった者達も含めて。
幾つかのテントに顔を出しては、皆の病状を聞き、不安や恐怖を和らげたいと声をかけてゆく。

中に一人、ベッドに腰掛けたまま足を摩る女性がいた。会ったばかりの時は踊り子の服装だったが、今日は薄い色の麻のワンピースに身を包んでいる。
かたい素材では肌を傷付けるのではないかと心配したが、代わりになるような服も持ち合わせていない。

「こんにちは、足の具合はどう?」

声をかけて初めて、こちらに気付いたようで、笑いかける彼女の表情は明るい。
「以前のような痛みは引きました。これも医療魔法に長けた王国兵の皆さまのお陰です。」
そう、良かったと、膝を折って彼女の患部に手を当てた。
私は呪文を使えないけど、死者が蘇らないように、医療魔法も簡易治療以上のサポートにはならないと聞く。どうしても完治とはいかないのか、この手に魔法の力さえあればと思わずにはいられない。
「もう、踊れないけど。私はこの命がある限り好きな事を見つけてやっていくつもり。だから兵の人たちには本当に感謝しているんです。」
今、この砦に大きくはためく王国の旗は、彼女達が縫い合わせてくれたのだと聞いた。
素晴らしい刺繍技術だ。少し話しただけでも分かる、勤勉で聡明な彼女だから、踊りや手芸といった身につけるのに時間のかかる専門職にも長けているのだ。
私の不安を拭うような彼女の笑顔と言葉に人間の強さを見せられるようで、立場など関係なく頭が上がらない。

「今はもう野草が秋に色を変えて、金木犀の花がいい香りなの。西の高台から見える景色が綺麗で…貴方の怪我がもう少し治ったら、一緒に外を歩きましょう。」

手をついて立ち上がる。摘んできた花を即席のコップに入れて木製の簡易ベッドの横、医療用トレーをずらしてスペースを作るとそこに置いた。

「ありがとうございます、姫様。」

姫と言われても、この国の民の為に私がしてあげられた事など何もない。
医療魔法も使えず、上手い言葉も見つから無いとは。私はここで見舞うことしか出来ないのかと思うと、寧ろ戦さ場の方が私の力を発揮できる気すらして、旅の中で必要とされていた頃を懐かしく思った。


数時間の仮眠を取り、昼前にはグレイグを先導とした一部隊を率いてデルカダールの被害状況を確認に出た。
残る魔物の気配に警戒はしたものの、地下水路から帰還まで遭遇を免れたのは幸いだった。
城下町の被害も酷いものだったが、何より城内はどの外壁も今に崩れ落ちそうで、今砦に残る人員を全て掻き集めても到底修復出来る領域では無く。我が家も同然の城を前に部隊一同唇を噛み締めることしか出来なかった。
何班かに分かれ、足場を探しながら調査にあたる間、数人で瓦礫を退かす度腐食の進んだ亡骸が鼻をつく匂いとともに現れて、これ以上は皆の精神が持たないと夕刻には砦に戻った。
父にその事を報告後、ゆっくりとでも、復興に人員を割かせていただけないかと村長のダンに掛け合うと、ダンは快く頷いてくれた。村を滅ぼした我が国の不躾な頼みに対して、彼が始終笑顔で応えてくれた事が、潰れそうな心の中、感謝しきれぬ程の救いだった。





涙を流す暇も無く、季節は私達を取り残すように過ぎてゆく。
デルカダールの兵は、イシの村の復興と並行して、城下の瓦礫撤去作業も行なっていた。移り変わる色の流れに置いていかれないようにと必死で働くが、長い道のりだ。珠のように噴き出る汗が地面に落ちる頃には冷たくなるような、これはまた、家屋も十分に無い私達にとって更に厳しい季節がやって来た。
吹き荒ぶ風が覚束無い足元を攫うようで。
先の見えない不安の中、砦のみんなの笑顔と、支援物資を届けに来てくれる他国の兵士や商人の暖かい言葉だけが活力だった。


冷えた水が切り裂くように肌に刺さった。
大滝から流れる水を桶に汲むともう一つ、空の桶に手を伸ばす。
壊れた井戸も生活用の水路もまだ復帰していない為、生活用水は村の者が分担で小川の水を毎日汲みに出なくてはならない。
看護の手伝いに回っている際、医療用水が減っていたので、私が代わりに出る事にした。医師は引き止めたが、このくらいの事は何でもないのだと断った。ここ暫く、多くの兵は皆瓦礫の処理と仮設住宅の建設のような力仕事へ出払っていて、その苦労を考えればなんて事はない。
生活用水の運びは主に、丈夫な木の棒に深手の桶をそれぞれの端に一本ずつ括り付けただけの簡易的な天秤棒で、5往復もすれば今日明日分の備蓄にはなる。
悴んだ指先に息を吐きかけて温めると、縁まで並々と掬った桶を一つずつ、改めてその棒に縫い付けて肩に担いだ。
肩に掛ける水は重く無い。
こんな重さなら、16年間の旅の間に幾らでも経験した。
到底、姫羅しからぬ行為と高貴な者は笑うだろうが、私は泥に塗れたその年月を後悔していない。
歩く度水が波紋を作っては跳ねるのを横目に、遠くで聞こえる朝鳥の囀りに耳を傾けながら無心で歩いた。
太陽の位置を確認しようと見上げた丘の先で、横倒れに折れた大木に腰掛けるグレイグの姿が目に入った。
任務の途中というわけではないのか、落ち着いた雰囲気の彼を見るのは久し振りで、水は急いで持っていくものではないと言い聞かせ平坦な場所に桶を置くと、数日ぶりに会う彼に声をかけた。

「こんな所で何をしているの」
振り返るグレイグは、私が居ることに驚いたように腰を上げる。
見ると、彼は珍しく一兵士と同じサーコートに身を包んでいて、普段の威圧的な黒のプレートメイルの印象からは離れた柔らかな印象を受ける。
「明け方帰還しまして、汗を流す為に水浴びを。帰り際に美しい景色が見えた為、つい足を止めてしまいまして。」
「責めているわけじゃないわよ。ただ、ここ暫くグレイグとゆっくりお話しも出来なかったから、何してるのかなって。そう、明け方に帰還したのね。お疲れ様。」
私が水を汲んだ時間でさえ、日は出ていたのだから、明け方の薄暗闇の中では川の水などとても、落ち着いて体を清められる温度では無かったはずだ。
国の英雄を落ち着いて湯にも入れてやれないことが苦しかった。

「長居し過ぎたようです。もう戻りましょう。」
そう言ってすぐにでも踵を返そうとするグレイグの首に巻かれたタオルを掴むと、こちら側へ引っ張った。
「息抜きは罪ではないわ。貴方は寧ろ働き過ぎね。」
少し、休みたいから、隣りいいかしら。
グレイグが先程まで座っていた場所には、倒れた後も風雨に晒された影響か、幾つもの木が横倒しのまま腐敗を始めていた。
近くの大木の安定を確認して腰を下ろそうとすると、グレイグに引き止められる。
「こんな物しかありませんが、お召し物が汚れます故」
と、申し訳無さそうに、首にかけていたタオルを何層かに折って、湿る大木に敷いてくれる。
私が着ている服は、旅の頃に愛用していた戦闘服のままで、煌びやかな服でもなければ、高価なものでもない。
「気にしなくていいのに」
「そういうわけには参りません。」

敷いてもらった布も、よく見れば彼のバイオレットの髪も、既によく乾いている。
それだけの間何を見ていたのかと思ったが、腰を下ろして分かった。
なるほどこれは、息を呑む美しさだ。
黄金色の朝日に照らされたデルカコスタの大地が、この丘から一望できた。
イシの村の人々は口々に、神の丘から見る景色が村の宝だと言っていたが、それは此処よりも美しいのだろうか。

横を見れば、私とは別の巨木に腰掛けるグレイグと目が合った。
「面白いものはありませんよ。」
「そんなことは無いわ。貴方は素敵な物を見つける才能があるのね。」
自分がまだ幼い頃から、グレイグは綺麗な景色を探すのが上手かった。空の色、面白い雲、七色の虹、満開の花。移り変わる美しさをその都度見つけ出しては勉学から逃げ出す私にこっそりと教えてくれた。
「そういえば小さい頃、私グレイグのコートに昆虫をくっ付けては怒られてたわね。」
彼の着ている一般兵と同じ装いを見て少しだけ思い出した。 まだ彼らが一兵士であった頃。
呆れるホメロスからはため息混じりに優しく忠告を受けたが、幼い頃は無邪気なもので、グレイグの驚く様子が面白くて何度も。城の敷地内でそれなりの大きな昆虫を探すのは簡単では無くて、侍女の目を盗んで林に出てはお父様はその都度怒っていた。私がぐずると落ち着いたグレイグが慰めに来てくれて、父の元に謝りに行くのに付き添ってくれるのが城の日常になっていた。
そんなこともありましたな。と彼は苦笑いで、話題に出されるのも嫌なのか素っ気なく返されてしまう。
「虫、まだ苦手なのね。」
申し訳ないような気も、昔から何一つ変わらない彼が嬉しいような気もする。
「得意とは言い難いですが、そんなことは言っていられません。」
「そうね。」
砦の簡易テントは地面が剥き出しだし、野営でも虫との遭遇は魔物との戦闘以上に避けられない。
こんな大きな英雄にも普通の人よりも弱い所があるのが、そして自分がそれを知っているということが、なんだかとても面白かった。


グレイグが生きていたことは、ロウ様と旅をしている間、行く先々で聞く彼の功績で知っていた。
どこにいっても英雄と讃えられていたグレイグ。乱心した父の噂を聞いても、何度城に戻りたいと思ったことか。
あの頃は、まさか父の体自体をウルノーガが支配しているとは思っていなかった為、お父様に話せば分かってくれる、城に戻りたいと、泣いてロウ様を困らせたことも一度や二度ではなかった。
「あの頃のお転婆だった姫様がこんなにも成長して帰ってきてくださったこと、このグレイグこれ以上嬉しいことはありません。」
いつか、再開した時と同じ言葉で返してくれる。変わらないグレイグが好きだと思う。
いつもの距離感に安心した。こんなにも真っ直ぐで真面目な男だから、ウルノーガもグレイグにはその誘いを向けなかったのではないだろうか。

「私も、貴方が生きていてくれたこと、とても嬉しいわ。」
ユグノアの悲劇の際、王の側近に付いていた彼。魔物の襲来は勿論、その後世界の混乱も戦場も激化する中で、魔王の横に付きながら、良く生き延びてくれた。
バンデルフォンといい、荒れる運命の中生かされる彼には神の加護が付いているような気すらする。
隣のグレイグを眺めるうち、今になって彼が手に持っているものに気が付いた。
指の間からきらりと覗くのは、自分が幼い頃からグレイグとホメロスが大切に持っていたペンダント。お揃いのそれを胸に掲げては笑い合う二人を見るのが大好きだった。
そのペンダントを握りながら、眺めるこの地に対して、何を考えていたのか。
「まだ持っているの」
指摘したペンダントに気がつくと、彼は私に見せるように手を開いてくれた。
「共に強くなろうと。友との、約束でしたので。」
誓いあったペンダントには王国の装飾が施されている。本当に大切にしていたのだろう、目立った傷も見当たらない。
質の高い装飾だ。見習い兵の子どもに与えるには高価なそれ。お父様は、彼らの事を本当の息子同然に可愛がっていたのだ。勿論自分も実の兄弟のように二人の事が大好きだった。
何故、気がついてくれなかったのか。
ホメロスは幼少から向上思考が強く頭の切れる猛者だったが、その実優しく誠実な人だった。

グレイグはそれ以降口を閉ざしてしまった。

親友への想いについては、彼が天空魔城でホメロスに口にした言葉が全てだったのだろう。



朝日が高く昇る。遠くに見える湖に、オレンジがキラキラと反射している。
今日、この景色が訪れること。美しいと感じること。そして、それを共有出来ること。
それだけの事が、どれだけ幸せな事か。
奇跡の積み重ねの様だと思う。ずっと呪った我が身の不運も、恨み続けた神の審判さえ忘れて、この時間が訪れていることに感謝した。


昨日の明け方に、以前グレイグが枯れ井戸から救い出した少女がその幼い命を大樹へ返した。
彼は佇む医師に感謝すると、少女の亡骸を抱え上げ、その子の頬に唇を当てて、同じように、よく頑張ってくれたと。
彼女はよく生きた。医師に数日の命だと言われた後も、何度彼女と朝日を浴びた事だろう。彼女は陽の暖かさを感じられただろうか。
彼に掬い上げられた命が、最期に少しでも幸福であればと祈った。
例えそれが偽善でも、そうでもしなければ、目の前に立つ彼の努力が無に還りそうで、無言で土を掘る彼に寄り添って花を添えた。
彼女のお父様とお母様は見つからなかったが、出来れば同じ場所へと、枯れ井戸から一番近い女神像の下に白い墓を建てた。
もう二度と魔物に荒らされぬように。
墓を掘った手に、爪に、泥が入り込んで、何だか心まで汚れてしまいそうだった。


この大地を護りたい。
復興の為に、非力な私に何が出来るのだろう。二本しかない、小さな手だ。

見えない明日への不安に答えが欲しい。
「ねえ、グレイグ。あなたには感謝しているわ。いつもお父様やこの国のみんなを支えてくれて、ありがとう。」
「身に余るお言葉です。」
「そんなことは無いわ。この間も大滝での戦闘を聞いたわよ。魔物の軍勢を倒したって。華々しいことじゃない、貴方のお陰で私たちは 安心して砦で過ごせるのだから。」
「私は決してそのような賛辞を受ける身にありません。」
「何故」
「魔物と言っても、私が倒したのはバンデットでした。」
バンデットの魔物と聞いて、彼の言いたい事がすぐに分かった。大樹の崩壊後、急激に増えたバンデットの魔物達を、人々は屍人の魂が魔に堕ちたものと言っている。人の魂や屍が魔物に直接的に変化することは無い。そんな場面を見たという話は無いが、否定する要素も見つからない以上、その説を拭う術もない。
愛した国民の成れの果てと言われる者すら、その切っ先の前では葬るべき対象になる彼の覚悟に内臓が絞られるようだった。
軽く、魔物の討伐などと口にした自分の浅はかさが憎い。
「故郷を滅ぼされた時、幼い自分の無力さを呪いました。昔も今も、過去を断ち切るように剣を振るっているだけです。」
「でも、貴方の行動は、結果的に多くの人を救ったわ。」
「英雄などと呼ばれても、何も変りませぬ。何も守れませぬ。」
そんな事は無いと、何度も言いたかった。でも、それは更に彼を追い詰めるような気がして、口に出すのを躊躇った。
「そして今も、王の身を守れず、友と民を奪われました。」
不甲斐ない自分を許せないと零す彼を見て、身が引き裂かれるような思いがした。
いつだって私は、何も言わず立ち向かう彼の背につい頼り過ぎてしまうから。こんなにも一人で抱え込む彼の苦悩を、見てもいなかったのだ。
「私には何も見えていませんでした。自分の浅はかな行動が、幼い命までいとも簡単に奪わせてしまった。」

そんなことはない。グレイグはこの地で最も早くホメロスの謀反に気付き、それを証明して見せた。それは彼の立場における最善で最速の判断だった。
どれだけ過去を悔もうとも、私達の行動と予測を上回るウルノーガに、あの時の誰もが勝てなかったのだ。
双賢の姉はその命を犠牲に私達を天空魔城へと繋いだが、妹のセーニャが私達の前でも涙を見せない以上、振り返るように彼女の死を悔やむ事を皆が控えた。しかし、考えない訳がない。割り切れる訳がない。いつまでも無力感は肩に重くのしかかる。

「人は、万能ではないわ。一人で抱え切れないから、みんなで分け合うのよ。」
彼とこんなにも多く言葉を交わしたのはいつ振りだろう。英雄と呼ばれる彼も一人の人間だという事を、彼の心の闇を聞いたことで、やっと自分にも分かる気がした。
「私も、背負うから。」
任せきりにしないで、もっと頑張るから。
「あまり自分を責めないで。」
グレイグは口角を上げて笑った。それは、どちらかというと私を慰める為の笑いのように見えた。

「分かっているのです。こんな時こそ、前を向かねばなりませんな。」
皆、グレイグのそういう所に惹かれるのだろう。彼のそれは、一種の、カリスマ性なのだと思う。
彼の隣は、心が安らぐ。

「私にはホメロスのような知恵もありませんが、残された者として、姫さまやこの国の盾となりましょう。」
グレイグはホメロスの知略を買っていて、思えば事あるごとにホメロスと自らの差を自戒を込めて口にする癖があった。
ホメロスは知性、グレイグは力。海の戦略家と地の将軍として、一対を成すその姿を双頭の鷲と呼んだのは、誰が最初だったのか。

「…今は、辛い事ばかりだけど、落ち着いたら私、まだ世界を見て回りたいわ。」
世界が平和になれば、女の子らしく可愛らしい服を着て、ダーハルーネに甘いケーキを食べに行きたいという願いも、いまだ叶えられていない。
復興が進み、休暇をもらえるのなら、今度こそ、自分自身の応えを探して行きたいと思う。
「姫様がそう願うのなら、このグレイグどこまでもお供させていただきます。」
もし、またデルカダールに帰れるなんて、奇跡のような幸福が訪れても、王族がそんなに簡単に出歩けるわけもないだろうが、本来の職務や現実の厳しさを抜きにしても、今、彼が、夢物語のように語る馬鹿な戯言に付き合ってくれたことが嬉しい。
「約束よ」
「誓いましょう。反故にすることなどありえません。」
ふふ、と声が漏れた。
この騎士が誓ってくれるなら、きっと叶う。
ならば私は、一日でも早く故郷に帰れるよう、最善を尽くすだけだ。

戻りましょう。と腰を上げたグレイグに続く。

当然のように差し出された手に自分の掌を乗せると力強く引き上げられた。暫く前、城の中で崩れる足場から掬い上げてくれた手を思い出した。
あの時は身につけたグローブ越しだったが、素手の彼の手は変わらず大きく、焼けるように熱い。
彼の手を繋いでいると、そこから心が浄化されるようで、いつかと同じように、前を向けるような気がした。
それがとても心強くて、立ち上がった後も手を離せずにいると、彼は不思議そうに首を傾げる。

「また、この国は立て直せるかしら。」

視線を合わせると彼の緑の瞳。

「今回の旅を経て、私は民草の強さを再度思い知らされました。必ず立て直ります。いえ、立て直してみせましょう。」

何処に行っても彼らは諦めてはいなくて、そんな人々を見る度自らに大丈夫だと言い聞かせたが、根拠等無い中、どうしても確約が欲しかった。
グレイグが約束してくれるなら、それが可能な事のように信じられたから。
彼の信念を確認するような、狡い聞き方だったと思うけれど、想像した通りの彼の言葉に強く背中を押された。

ここ数日、国の為に自分に何が出来るだろうと、ずっと考えていた。
戦さ場に立てない以上、手早く私が国に貢献できるとすれば、政略結婚くらいのものだろう。こんな歳でも貰い手がつくのなら、復興の資金繰りの為に、知らぬ貴族だろうと幾らでも身を売る覚悟だと父に申し上げた時、父は酷く気分を害したようで、お前が心配することではないと一蹴にされてしまった。
血族の血を汚す様な申し出を喜ぶ訳も無い。その時は自分のことしか考えられず、無様にも父を傷つける結果となったが、王国復興の資金の当ても無い今、血族の血を汚すことも国民の苦労を考えれば厭わない。
いつか結婚をして王女として国に立つ時には、簡単にグレイグと、こうして景色を共有することも相談に乗ってもらうこともできなくなるだろう。

「国の為に、何が出来るかって考えたわ。それで、お父様に縁を組んでいただけないかと相談してみたの。良い人が現れるといいけど。でも、結婚したらきっと、窮屈でしょうね。」
本当なら、苦しくても今のまま、皆と肩を支え合う方が良い。だがそれでは、とてもじゃないが、国民を王国へ帰してはやれない。
グレイグは私の考えに驚いたように眉を上げたが、すぐにいつもの顔付きに戻って柔らかく笑った。
「我が主君は決して、姫様の笑顔を奪うようなご婚約はなさらないでしょう。」

「ご自分を下卑するような発言は、姫様自信を傷つけます。何よりもご自分を大切になさってください。マルティナ様はこのロトゼタシア一の優しさの持ち主なのですから。」
グレイグの瞳が、言葉が、暖かくて胸に沁みる。
グレイグはこんな話題の中でも容姿の事を掛け合いに出さない。無骨な男だから、深い意味は無く、意識の範囲外なのかもしれないし、もしくは周りをよく見ている人だから、普遍的なものを引き合いに出すのは場にそぐわないと、意識的に変えてくれたのかもしれない。
それでもずっと、
これ以上大切なものを零さないように、守る為に強くなりたいと叫んで、女を武器にしてでも自分で戦える強さが欲しいと願った。
女の子としての幸せを16年間捨てて、自分なりに、欲を堪えて努力もしてきたつもりだ。
グレイグはその強さが、優しさにもなると言ってくれているのだ。
それが何より嬉しくて、嬉しくて。

「皆で、幸せになりましょう。」

冷たい冬風の中、繋いだ手が暖かい。
包み込むように両手で握り締めて、そう言ってくれる彼の存在に、やはり甘えてしまう自分がいる。その「皆」に、グレイグも入っているのだろうか。
涙が溢れそうになって誤魔化すように下を向いた。
丘に吹く風に煽られて、紺の髪に結いつけた母のリボンが揺れる。女学園で譲り受けた時から、自分を見守っていて欲しくて肌身離さず身に付けているものだ。
ふと、気が付いて、誓いたくなった。

「王や姫、デルカダールの民の笑顔が、私のなによりの喜びです。」

そう。突然に、気が付いた。
折れそうになった時、前を向きたいと思った時、何度も反芻したこの声を。いつも甘えてしまう優しい言葉を、こんなにも望んでいるということを。
恥じるような思いではない。ただ、母から譲り受けた髪留めに、素直な自分の気持ちを隠したくはなかった。

『私はもう二度と…失うわけにはいかないのです。』
あの日、彼は泣いているようにみえた。
民を深く思い遣り、いつだってその身体一つで、みんなを守ってきてくれた人。


私たちの希望の光よ。

「デルカダールの復興はまだ先が見えなくて、何年、何十年かかるか分からないわ。それでも私は、お父様と、貴方と一緒に、どれだけの年月をかけても立て直していきたい。」
グレイグの言う通り、お父様は優しい方だから、心無い結婚はさせないかもしれない。それでも民の貧困は隣り合わせで、可能性が無いとは言い切れない。
そんな中でこの思いを口にすれば父の臣下として義に厚い彼は困るだろう。
決して口にはしないから。どうか無力な私に、貴方の幸せを願うことを許してほしい。
この胸に秘める生涯の告白を、誓うように繰り返す。
何があろうと、泥と血に塗れた戦さ場に立てずとも。
同じくこの国を愛する者として、私の心はいつでも貴方と共にあろう。

「愛するデルカダールの為ならこの命を賭してでも。」

いつも変わらない彼の深い忠義と国への愛情が嬉しくて、心を伝う悲しみ等忘れてしまえた。
我が儘は言わない。これから先もこの距離感で支え合っていこうと思える。それにすら安心して。
笑顔で肩を叩いた。





それからまた行く年月。
突き抜けるような紺碧の空に白い鳩が舞った。
平穏を告げるファンファーレが高く鳴る。シンバルの音が壮大に響いて、城下町を行進して行く。
以前と同様の活気とまではいかないまでも、逃げ延びた少数の国民と共に、立て直し始めたデルカダールに私達はもどった。
あれからイシの村の人々と、デルカダールに関係の深いソルティコは勿論、クレイモランやグロッタからも人員や資材を貸し出してもらった。
崩れ落ちた石組みを立て直すのに休まず働いて2年以上の月日が掛かったが、復興までの期間、何処へ行っても、その土地々々で皆が、以前助けてもらった恩にと限りある私財を無償や破格で貸し出してくれた。
王族として無様な姿は見せられないと胸を張るのが一番辛かった。何よりも嬉しくて、皆の言葉に泣き崩れそうだったからだ。
久し振りに顔を合わせた勇者やロウ様から聞いた、ユグノアの復興も順調と聞く。此方からユグノアに落ち着いて挨拶も出来ないままで、非礼に頭を垂れると、ロウ様と勇者にきつく抱きとめられた。謝るなと言う彼らの目を見て、皆、辛かったのだと悟った。
私たちだけでは無かった。そして、数え切れない人々に支えられていたのだと、今になってようやっと気がつけた気がした。

明けの宴は、窮困もあって各国の王族を数名呼んだのみの小さなものだったが、
これまで助けてくれた皆に直接御礼を返せるのが本当に嬉しくて、手を取り合っては、次はこちらが助ける番だと誓う。数十年振りに着た優雅で布を贅沢に使った服は慣れないけれど、気の置けない人たちからの賛辞に笑顔で返す。
幾何学模様に敷き詰められた真新しいタイルの広場を子ども達が元気よく駆けていく。
美しく切り揃えられた常緑樹の奥、城の東の広場には、忘れぬようにと碑石が建てられた。
双頭の鷲が魔に堕ちた事は、私達の中だけに収め、国の者にはホメロスを英雄として語り継がせると殉職という形で名を刻んだ。
彼に思いの伝わらなかったことは惜しまれるが、私達も国民も、彼の事が大好きだったから。
国中に響く喜びと喧騒の中で、少し離れた所に付く父とグレイグの会話が聞こえてきた。
「これまで、そなたのことを息子のように思ってきた。」
聞こえる父の言葉に頬が緩む。彼は復興の間も本当によく働いてくれて、父は会う度にグレイグを褒めていたし、グレイグもそんな父に恩を返そうと働いた。
振り返らなくてもグレイグが涙を堪えているのが分かる。
「グレイグ、そなたさえよければ、わしの本当の息子になる気は無いか。」
その意味が分かるまで数秒かかった。
母のリボンにのみ誓ったこの思いをいつから父に知られていたのか。グレイグは私をそんな対象に見た事も無いだろう。今度ばかりはグレイグの表情に予想も付かなくて、堪らず振り返ると、私と同じくらい顔を真っ赤に染めた彼と目が合った。

その横で父は満足そうに笑っていた。


2017.09.19

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