■明日また陽が昇る




犯した罪を背負いながら生きることは、その後の一生を清算に捧げることなのか。




自らの幸せを望む権利はあるのだろうか。





王国を包む霧雨はここ二日間、空気を白く染めながら国に留まり続けている。
城下町の教会から聖歌隊の賛美歌が、図々しく居座る霧雨に篭るように響いた。





高らかに歌を。









明け方の薄暗闇の中、湿った城壁に手を添えると、石の熱伝導に応じて火照った体温が冷やされてゆく。
城郭都市でもあるデルカダールの石積みは、その重要性から、行き届いた管理によりよく清掃されているが、雨垂れ石を穿つとはよく言ったもので、古くからこの城を守ってきた城壁は風雨に洗い出された目地の経年劣化に、長い年月でこびりついた土ぼこりや血痕で古ぼけて見える。
手を置いた箇所を境に、斜めの亀裂が入ったように色の違う真新しい積み石は、大樹の崩壊で崩れた部分に兵達が積み上げたものだ。
資源の交渉時、各国を渡り歩いてなるべく元の城壁と同じ色のものを探したが、自然の岩を加工して作られる布積み用の積み石は全く同じものとはいかなかった。


この城に拾われたばかりの時から荘厳と在る美しい城壁に
当時は誰の功労かも知らず、帰る故郷を失くした悲しみをぶつけた日も、なんと立派な城かと誇らしく思った日もあったものだ。


夜風は冷たくなっていたが、また、厳しい冬の来る前にこの国に戻れて良かった。

イシの村が、我らの国に滅ぼされる前の様子を取り戻して、穀物も居住区も水路も、全ての復興が落ち着いた頃には、並行して修繕作業を続けていたこの国にも、砦に逃げ延びた少数の国民と兵の住まいが足りる程度には確保が出来ていた。
イシの村を出る前、村の民にこれまでの謝罪と感謝を告げた時、余りある程尽力してくれたと村長が言った一言で、兵共々許されたのだと分かると、感謝で溢れる涙が頬を伝って、頭を上げることが出来なかった。

長きに渡り肩を組み合った者たちに別れを告げて、馬を引き少ない私有物を纏めると、イシの大滝を越え。
長い、長い年月を掛けて、私たちはこの国に戻ってきた。

多くの民の移住も落ち着き、謁見の間の整備がやっと整った数日前。感謝の意を込め、これまで助力いただいた国々を招いて宴を開こうという話になった時、階層は違えど、国民も参加出来るようにと取り計らう王と姫様の姿は本当に嬉しそうで、輝いて見えた。
その日中に御触れを出すと国の者は大いに賛成して、
今この国の者は皆、翌月に控えた国を挙げての歓待に忙しなく働いている。


昼の間、一帯を覆っていた曇天は陽の沈む頃には薄くなり、今は雨後の空模様だ。
高く紺を染める天井に数多の星が銀河を作っていた。

しかし、地面に残る、じっとりと張り付くような重苦しい湿度に、
降り頻る雨がまだ心に居ついているような感覚が抜けない。

勇者との旅の終わりから何年経ったか。
無実のユグノアを責め、友の叫びに気付いてもやれず。
護るべき姫に矛を向け、光の勇者に汚名を着せて、取り憑かれた主君を疑うこともせずに世界の源を堕とさせたこと。
全てが自分の決断による取り返しの付かない失態であったとしか思えなかった。
この国と民を護りたいと言って、深く傷つけたのは自分自身ではないか。それを行く先々で英雄と呼ばれる度に心が傷んだ。
自分の行いはマッチポンプと何が違うのか。いっそ責め立ててもらった方が楽だ。

もう何年も、想像も及ばない程多くの失われた命への謝罪と、周囲からのすれ違った過度の期待に、可視されない体内の心臓部から止まることのない血液が流れ続けているようだった。



故郷であるバンデルフォンを追われてからいく年月。


目の前の事に右往左往する間に時は刻々と流れ、精神の追いつかぬまま気付けば齢四十を目前にしていた。


昔の様な肉体的な若さも、いつか王国を護る騎士になろうと木剣を握りしめて誓い合った友も居ない。
全ては思い出になっていく。
投げ出したくなるような思いと責務の中、体力を落とすわけにはいかないと思いながらも、自己鍛錬の時間はこうして明朝に自ら時間を作る以外に無かった。

冷えた汗を袖口で拭うと呼吸を整えて、再度石垣に立て掛けていた剣を握る。

決して軽くは無い大剣。
長年叩き込まれた型をなぞるように振っているとぱきりと枯れ枝の折れる音がした。
城内で不審な者でもないだろうが、迷わずこちらに向かってくるとは何用だろうか。
足音に目を向けると、明朝の薄暗い林道から寝具に身を包んだこの国の女神が現れた。
珍しく、下ろしたままの膝まで流れる黒髪が月明かりを吸いこむようで妖艶だ。

「姫様、こんな所へ」
姿を認識してすぐに護身の為にと近づこうとしたが、妙齢の女性のあまりに無防備な格好に気付き、それ以上距離を詰める事を辞めた。
近ごろは長い間着ていなかった高価なドレスにも慣れてきたようで、旅の間のような辺りを気にしない歩き方は控えるようになったが、それでも彼女は、柔らかいレースとシフォンで彩られた踝も隠れる程のオフホワイトのホームドレスに、薄いナイトガウンを羽織っただけの恰好で。
それも、足元を見れば内ばきのままだ。
そんな足でこの演習場までの石畳みを歩いてきたのか。中核施設とはいえなんと危険な。
「なんという姿で出歩いておいでですか。他の者が見れば皆仰天して意識を飛ばします。」
「ちょっと足を延ばしただけよ。ベビードールでもないのだから、いいじゃない。」
薄雲に身を潜める月明かりの下で姫様はそんな大袈裟な反応は私だけだと笑うが、ベビードール等貴婦人の下着も同然の単語を恥ずかしげもなく言ってのける姫様にこめかみが圧迫されるように痛む。
「姫様の口からそんな言葉が出たと知れば侍女が泣きます。」

すぐに、姫様とは反対方向の木に掛けていた自らの外套を手に取ると、一言断って姫様の肩にかけた。
「あら、寒くはないのよ。」
「そういう問題ではありません。」
透明感のあるシフォンが姫様のスタイルを浮かび上がらせるようで目のやり場に困るのだ。
ロウ様との過酷な環境下に置かれた旅の間に学んでいると思っていたが、姫様は何処へでも、興味が優先するようにお一人で足を向ける。無礼な見立てと承知の上だが、その姿は己の強さに奢っているようにもみえた。
城の敷地内とはいえこんな時間に出歩くことは感心しないということ、幾ら手練れの戦士であるとはいえ、今はもう幼子ではないのだから、ご自身で気をつけていただきたい。


「ちゃんと夜は休まないと駄目じゃない。職務が忙しいとは思うけど、鍛錬の時間がないのは不服かしら。」
「お気になさらず。自らの為にしていることです。」
鍛錬は未熟な自分への戒めとして。怠ると落ち着かないのは、半分は趣味のようなものだからだろう。

「こんな時間に何か私に御用でしょうか。」
「貴方と話がしたくて扉を叩いたけれど、部屋にいなかったから。屋内に見つからなかった時に、ここだと思ったの。」
「それは、申し訳ありません。」
特定の人物は、探していなければ広い城内のこんな時間に顔を合わせる事等ない。
一体こんな時刻になんの話しだろう。

「今日、お父様には会ったかしら。」
「最後にお会いしたのは二日前になります。」
国に戻った後も王宮兵達は、資金、物資、人材の不足と、まだ手のつけられない最下層の修繕の為、彼方此方に出向き契約を交わしては事務処理と力仕事に追われるような生活で、
大樹崩壊時被害の中心部に無かった沿岸諸国は、建物の修復以上に今も止まない海からの魔物の襲撃に兵の援軍を求めていたので、復興の落ち着いたデルカダールから資金の貸し出しを条件に少数精鋭の軍を送っているのが現状だ。
数週間前、兵を率いて森林地帯広域に広がる国際運河を渡り、デルカコスタ地方の南西部、渓谷のウィズリー伯爵の古城城塞に入り込んだ魔物の討伐任務に当たっていた。
魔物の撤退後も感謝しきれぬと言うウィズリー卿からはもう一日の滞在を提言されたが、王国での職務もあると丁重にお断りさせていただいて、帰還したのが二日前。
王には遠征からの帰還後に挨拶をしたのみで、饗応の決議以降はお会いしていなかった。

「そう、そうなの。」
姫様は、ならいいわと続けたような気がしたが、声が小さくて上手く聞き取れなかった。

「ウルノーガまでの道のりと砦にいた間は、話しは出来なくても忙しいながらに顔は見れたから。城に戻れた事は何よりだけれど、貴方との距離が遠くなってしまうようで寂しいわね。」
「私は王と姫様に忠誠を誓う身。お呼びいただければいつでも向かいます。」

「そうやって、すぐに身分を出してかしこまらないで。私は久しぶりに貴方と、昔の様に話しがしたいのよ。」
昔というと、兄弟のように遊びに悪戯に振り回されていた頃だろうか。
昼では人目があるから夜に来たということなのか。なんにせよ、今の姫様にあの頃と同じようにドレスを脱いで木に登ることも、泥水に塗れて身を汚すような遊びも、立場上承諾しかねた。

「寝付けないのでしたら、コックに暖かいハーブティーでも出させましょう。」
そう言って横切ろうとする手を引かれる。

「寝付けないのは否定しないけど、ほら、来月には饗応が決まったでしょう。楽しみでなんだか寝られなくて。そんなことの為にコックを起こすことないわ。」

興奮で寝付けないと言うのであれば、幾らでも聞き手になろう。
暖を求めて室内に戻りましょうという提案は姫様の要望により敢え無く終わったが、立たせたままという訳にもいかず、演習場の隅に置かれた折り畳み式の木製椅子を開いて座らせると、誘われるまま自らも隣に座った。
姫様はそれだけで旅の野営を思い出す様だと笑って、久しい城での生活を話し出す。

「王族の職務は覚える事が多くて大変。仕来りと情勢に作法だけでもいっぱいなのに、型の決まった歌に踊りよ。これならもっと小さい頃に、真面目に家庭教師の言葉を聞いておけばよかったと思うくらい。」
その昔、教育係の目を盗んでは勉学から抜け出して従者を困らせていた少女とは思えない発言に、経験は人を変えるものだと一人納得する。
「そういえば昨日は賛歌が。聖歌隊にも顔を出されましたか。」

「ええ。素敵な歌声だったわ。これを機に皆が歌や娯楽への行事に気楽に打ち込めるようになるといいけど。宴での披露が楽しみね。」

「高貴なる者に伴う義務ですか。王国を挙げての宴であれば国民の気も休まりましょう。」
民の生活に、娯楽に興じる余裕あってこその平和だ。
今回の饗応が民草の心の豊かさに繋がれば何よりだった。



「戻ってきたのよね。」


そう吐き出された息が薄闇に白く溶ける。

この人はずっと、私の思うより長い時間を超えて、遂に、我が家に戻って来たのだ。

姫様も自分も忙しく地方を回っていた為、こうして落ち着いて顔を見るのは砦を立った時以来か。



隣に座る姫様の手が自分の腕に伸ばされると、袖布に重さを感じない程度にその手が置かれた。

「グレイグ…」
彼女は何か言おうとしたまま口を閉ざしてしまう。


腕に置かれた掌が熱い。

ドレスの袖ぐちに長くあしらわれたクロッシェレースから、姫様の肌がのぞいて心臓に悪い。
一般的な女性の手よりは大きいのかもしれないが、自分からしてみれば白く小さな、あまりに儚い腕。
この腕でどれだけの時間、苦痛と不運を乗り越えて来たのだろう。
護るべきものを取り零してばかりの自分の腕とは違い過ぎて、そう思うとまた、心臓から血が流れ出すのを感じた。

「姫様の手が穢れます。」

自らの手を添えて繋がった熱を引き剥がすと彼女の顔は泣き出しそうに歪んだ。

「あなたは私たち王国の英雄よ。そのあなたが、自分を悪く言うのはやめて。」
姫の笑顔を私が曇らせてどうすると、自分本意な考え方を後悔したが、もう遅い。

「私は貴方への称賛を誇りに感じるの。」

どくどくと、心臓が脈を打つ。
音を立てて血が溢れる。

姫様の言う誇りとは、国の騎士が戦果を上げる事だろうか。
自分がこの世界の源を壊したのだと頭の中で誰かが騒ぐ。
そう言われる度、混乱と狂気にいつだって逃げ出したくなるが、地に飲み込まれたように、足が動かない。
この人の言葉を怖いと思う自分を切り倒したかった。

「命の大樹が堕ちた時、人だけじゃない。動物たちも多くが死んでしまって、鳥達の声も聞こえなくなっていたのを覚えてる?」

姫様はその高貴な手を、また、私の方に差し出して、ゆっくりと腕に置いた。

布越しに伝わる、彼女の体温が、熱い。



「また、鳥の鳴き声を聞けた時に、私がどれだけ嬉しかったか。心の折れそうになった時、貴方が隣にいてくれたことが、どんなに嬉しかったか。」


言葉を続ける姫様は、私が支えたと言うが、そんな風に立ち回れた事があったろうか。
いつだって自分は自らの犯した罪をどうにか贖いたくて、微かな希望に縋るように、泥を掻いているだけだ。

この城に戻れたこと、また皆で笑いあえることを、多くの国民が自分の功績のように言うがそれは違う。
この国の民と王国兵の血と汗のお陰なのだ。全てを自分の手柄にしたいなど、一度として望んでいない。
ただ、皆が英雄の虚像を望んでいるのが分かると、期待を裏切る訳にもいかず、自分はその思いの受取手でいようと思った。


「だから…ありがとう、グレイグ。」


なんと身に余るお言葉か。


そう、返したと思う。



それから暫く鉱石の様な彼女の話しに耳を傾け、秋冷の風に姫様が小さなくしゃみを上げたのを機に話を切り上げると城内へと送った。
思えば、旅の間も彼女と二人きりになることはそんなに多くなく、演習上から石畳みを歩く間は、話す内容も当たり障りの無いことに留まった。

外に比べれば暖かな屋内の廊下を通って姫の私室の前に立つと、彼女はドアノブに手をかけたまま振り向いて一度
貴方に栄光をと言った。


乾いた音を立て閉まる扉。
絨毯の敷かれた廊下を辿って目線を上げると、地下水路を潜って勇者と歩いた日の、亡骸の転がる廊下がフラッシュバックする。
体に受けた傷は治っても、心的外傷には医療魔法も効果は無い。
ウルノーガの配下にあった六軍団はみな強敵だったが、中でもやはり、城を乗っ取った屍騎軍王ゾルデの軍勢との対峙は自分の、そして多くの国民の心に深い傷を残していた。


自分にとっての栄光とはなんだろう。
名声か、権力か。そんなものはいらない。
私はただ…


私室に戻る途中、バルコニーに嵌められた大きなガラス戸の奥に見張り台に立つ兵が見えた。

寒空に身を縮める兵は、当時ホメロス直属の部下だった者だ。
ホメロスを失った今は軍の統率を私一人で行っている為、やりづらいことがないかと声をかける事にして見張り台まで足を運んだ。


石造りの階段を登ると雄々しい装飾のある鉄製の枠を叩く。

「おはようございます。グレイグ将軍。」

吹き抜けの見張り台には冷たい風が吹く。
鈍い音に振り向いた兵が肩に羽織る薄手の毛布を外そうとするので、それを制して抑えた声で挨拶を返した。


頭の切れるこの者は、軍略部とはいえ一軍の兵であるにも関わらず、有志の夜間の見張りまで請け負ってくれていた。

「本来であれば、お前のような者にこんな仕事を任せるのは忍びないのだが。」
最後の砦に逃げ延びた兵は最盛期の12分の1にも満たない。
そこから幾人もの兵が、砦の攻防戦の中で命を落とした。
世界一の王国と謳われたこの国は、その外観こそ取り戻したものの、今は見るも無残な軍事力しかない。
教育体制も覚束ない状態で、新人兵の育成には更に年月がいるだろう。

「人手不足は、なんとも」
つらいですなあと大して気にもしない風に笑う。
その顔を見て、声をかけるだけでなく、何か飯でも持っていきてやるべきだったと今更ながらに思った。

「見習い兵だった頃、夜勤は眠くて眠くて。それでも、ここから見る朝日を誰より一番に独り占めできるんだと思うと、それだけで眠い目を擦って頑張れたものですよ。」
確かにデルカダールはこの地方でも丘の上に位置する城で、最も高いこの見張り台は陽が一番に差し込む唯一の場所だ。

「また、城からこの景色を見ようとは、思いませんでした。」
瓦礫も同然でしたから、と言った兵は、山脈に続く平地に目を遣る。

城に続く急勾配の坂に、放牧されている家畜が見える。
山間の薄暗い林から弱小のモンスターが何匹か飛び跳ねた。


城の東の広場に建てられた碑石が、明け方の薄暗闇の中に揺らめいている。



「宴の話し、聞きました。明るい報知が続きますな。」

兵は相変わらず、平地のその奥を見ているのか、淡々と、言葉を紡ぐ。

「ホメロス様と参加できればどんなにお喜びになったでしょう。」




「…私はホメロス様に憧れて入隊を希望したのです。」
言葉を無くした。情け無いことに、かける言葉が見つからなかった。
噂は知っていた。幾人かの賢い者の間には、憶測が飛び交っていること。
そしてその憶測が、大まか当たっていることも。

隠しきれるわけがなかった。
王と姫と、私だけではない。
長い間近くにいたホメロス直属の部下達は、謀反が表面化するそのずっと前から、既にホメロスの心境の変化を肌で感じていたのだ。

それ以上、この者が介入してくれば、自分はなんと答えるべきだろうと
握りしめた手の中でうっすらとかいた汗が、息苦しそうに行き場を無くした。

暫くの沈黙が流れて、薄暗がりに落とされた言葉は、自分が恐れたような内容ではなかった。


「陽が昇りますね」
と、目の前の兵が零す。
その目は先ほどまでと同じように、遠くの山間を向けていて、自分の位置からでは表情を読み取ることができない。
朝の薄い雲を切り裂いて遠くの山間からチラチラとオレンジが反射し始めている。

多くの友が死んだ。
いくら建物を直そうと、何度日が昇ろうと、失った事実は変わらない。
それを、忘れてはならないと思う。この国の犯した過ちも、自らの愚行も。
遠征に出ていた期間も合わせると、数週間振りに浴びるデルカダールの陽の光に、全ての清算を誓いながら。
これからの国の行く末と自らの行動を考えずにはいられなかった。














翌日はからりと晴れた晴天だった。
私室に差し込む日差しが燦々と瞼を貫いたが、短い睡眠の明けには貴族との謁見があり、王の隣に同席する事になっていた。
欠伸を噛み殺すように、2人目に入れ替わる合間、意識的に浅くしていた息を深く吐いた。
「グレイグよ」
玉座に座る王が、顔を上げてこちらを見ていたので、腰を屈めて顔を寄せる。
王から賜った漆黒の鎧がぶつかり静寂の間に不調和音が響いた。
玉座に流れる特有の空気は幾つになっても慣れない。

「饗応の際にはダーハルーネからケーキを取り寄せようと思っているのだ。マルティナから、最新作のケーキの味の感想を聞いてから気になって仕方がなくてな。」
王はその目を丸るく開いて話す。
自分も王国では長身の部類だが、王は自分より頭一つ分は高く、小さな頃はこの桁外れた体躯に憧れたものだが、周りを驚かせる程の甘党で、なぜこんな肉体を手に入れられたのか秘訣を乞いたいくらいだ。
「饗応まで待たずとも申し付けてくだされば兵を差し向けて買って参ります。」
あまり食べ過ぎてはお体に触るとも思ったが、自分はなぜこれまで忘れていたのだろう。この方がこんなにも甘い物に目がないことを。

信じることは、時に疑うことよりも残酷だ。
自らに不都合な事実に目を背け、姫様を失ったことで大きく変わったのだと思い込みたかっただけなのだと知った。
この方は20年間なにも変わってなどいない。

砦の籠城中も我慢していたのだろう。久しぶりに聞く王の甘えが嬉しくて、なんだって叶えたくなる。
「いや、いいのだ。今度マルティナが休暇を作って親子水入らずで食べに行こうと言ってくれてな。それを楽しみに取っておくよ。」
マルティナ様も中々の甘い物好きだが、まさか王様と姫様が出歩くお約束があるとは。それも親子水入らずでと言ったか。
王は護衛など無粋と思うかも知れないが、もしお許しいただけるのであれば、幸せそうなこの人たちの姿を目に焼き付けられる、護衛役に任命されたいと願った。
王は溢れる楽しみを零したかっただけなのだろう、子どものような所もあるものだと失礼ながら愛らしく見える。
自分も釣られて、それは!いいですねと自然と笑顔で返した。


本日の謁見はあと一人だけだ。
私が姿勢を正すと、王は一呼吸置いて「後で話がある」と。
この場で話さない様子から洋菓子の話しよりは重要なのだろうと察したが、なんの件だろうか。
「そうかしこまるな。重い話ではない。」
こうべを垂れると同時に、貴族の為に扉が開かれた。





謁見が終わり、幾つかの書類の整理を終わらせて、兵営に向かう自分の足は確実に重たくなっていた。
重い話ではないと言われたが、王に呼び出された内容は自分にとって気軽に流せる内容ではなかったのだ。

ともすれば吐きそうになる溜息をどうにか閉じ込めると、王宮の廊下を揺らす地鳴りと共に、奥から侍女達の悲鳴が聞こえた。
長い廊下の向かいから、幾つかの弾丸が前のめりに走ってくるのが見える。

おお、
「ローレンス、如何した」
大きく広げた手の中に飛びつくように体当たりをしてくる弾を受け止めて掬い上げると、手元には煌めく宝が二つ座った。

すると、直ぐに後を追ってかけてきた子ども達に囲まれる。
「グレイグさま!」
いち早くかけ抜いた者の特等席だとでもいうように腕の中の勝者が笑顔を見せるものだから、廊下を走るなと注意するタイミングを失ってしまった。
「エイベル、アラン、ハドリー、ジェイク、ヒューゴーお前達も元気そうだな。」
城内の広い廊下を駆けてきたのは、大樹の崩壊の際に親を無くしたり、住む場所を追われた孤児たちだ。王の計らいにより、今はこの城の中に小さな部屋を貰い、そこに住んでいる。
もう皆五歳から八歳程になったのか、崩れた瓦礫から助け出した時には一人で立って歩くこともままならないような赤子もいたものだが、子どもたちの成長にはいつも驚かされる。

輝く両腕の重みを肩に預け片手を空けると腰に集まる小さな頭部を一人一人、名前を呼びながら撫でて行った。
目の前に集まった全員分の髪の毛を荒らしてみると一人欠けていることに気付く。
「ナイジェルがいないな。」
砦に簡易テントを立てて凌いだ頃からいつも八人で一緒の子どもたちだ。腕の中の二人に、目の前の五人では数が合わない。
見れば子ども達は返す言葉を探すようにそれぞれが目を合わせると、堪らないといったふうに口元を歪めた。
ははん、なるほどな。
「読めたぞ…」
背後から、高価な絨毯の床に音を吸い込ませながら近づく小さな気配に、知らぬ素ぶりで視線を上げる。

「ここだ!」
注意を逸らしたのをいいことに標的が最後の一歩を踏み出す瞬間、振り返りざま両腕の子ども達の間に挟み込むようにして掻き抱くと、腕の中にはきゃらきゃらと笑い声を上げる宝が一つ増えていた。

「ほら捕まえた」
閉じ込めた状態から勢いを付けて抱き上げると、景色の変わる様が楽しいのか少年たちは悲鳴とも付かない声を上げる。
三人ともなるとその重みも中々のものだが、砦にいた頃は枯れ木のように細い体だった子どもたちがこれだけ健康に育っているのは嬉しい。
「ハドリーは顔に出過ぎだな」
策を講じるのはいいがそんなに顔に出ていては軍師は任せられないぞと言うと、思い思いに飛び回ってはきゃあとかぎゃあと声を上げた。
声変わりをするより前の、あどけない少女のような笑い声が城中に響く。
子どもたちは悪戯が失敗したにも関わらず楽しそうで、そんな子どもたちの様子を見ては自分とホメロスも幼少期、英雄譚を聞きに行っては構ってくれる騎士の姿にそれだけで喜んだものだと重ね合わせた。
いつの時代も変わらない子ども達の笑顔に頬が緩む。
少々うるさ過ぎたか、暫くすると勤務の長い清掃中の使用人に鼻息を付かれてしまい静かにするようにと窘めた。

それからは食が美味しかったとか、城下町の子どもたちの間では近頃何が流行っているとか、職務と睡眠を繰り返すだけの自分には分からないような小さな幸福を惜しげも無く教えてくれた。


「黒い雲もう来ない?」
与えてくれる幸福のお返しにと、自分の遠征の成果を態とらしく物語調にして聞かせる途中、一人の少年がぽつりと口にした不安。

それは誰もが感じる未来への惧れ。
どんなに夜を越えても打ち消すことの出来ない恐怖。

「ああ、来ない。来させやしない。私が、私達兵の者が、必ず護る。」
それは願望かもしれない。自分一人ではどうする事も出来ない強大な力を視野に入れない、楽観的な見方かもしれない。
それでも、阻止したいという思いを、決意を込めて口に出すべきだと思った。
子どもたちとの約束に嘘は付けないから。
邪神だろうと天災だろうとも、もうあんな寂しい思いを、この子たちにはさせやしない。

生きるのを諦めたくなる程の絶望も、立ち上がろうとする意思を嘲笑う向かい風も幾度と乗り越えて

その度に私たちは、失う事に涙し、落胆し、地に膝を着いたが、人生は悲しいことばかりではない。

肩を組みながら立ち向かえば見えてくる未来もある。
掴み取った"栄光"が今のこの少年達の笑顔なら、私はこの先、一生の罪科を背負って歩もうと、どれだけの苦難にも耐えてみせよう。


「この間、仕立て屋のテリーザに赤ん坊が産まれたの。名前がね、グレイグ様とおんなじなんだ。」

城下町で仕立て屋を営むテリーザは元踊り子だったが、彼女の仕立てる衣服は丈夫で物持ちが良く、品に溢れていて、その繊細な刺繍技術に国外からも評判を聞いた貴族が買いにくる程になっていた。
砦にいた頃、端切れで足りない衣類を縫い合わせたり、負傷した足を庇いながらも復旧作業に尽力してくれて世話になったものだ。
城に戻ってからも何度か顔は合わせていて、先月に吾子が産まれたとの吉報を受けていたが命名までは知らなかった。

「テリーザはね、グレイグさまみたいになってほしいってお願いをしてその名前にしたんだよ!」
胸のつかえが取れたように笑う子どもたちは溢れる泉のように、自分に幸福を運んでくれる。
辛い事も、失うことも多かったが、国を追われた数年の間に、砦で産まれた命もあった。

この光が続く限り未来が閉ざされる事など無い。

俺もその名前が良かったと零す少年たちに、母が、父が、産まれて最初に贈ってくれた愛だ。自分の名前に誇りを持てと教える。
そうだ、なんと名誉なことだろう。
この名をくれた故郷の父と母に良い土産話が出来た。
仕立て屋には、明日の見回りの後にでも顔を出す事にしよう。


「あら、両手に華…いえ、両手に玉ね。将軍様」
凛と通る声に振り向くと、スパンコールの編み込まれた生地とチュールレースをふんだんに使ったドレスに身を包んだ女性が腕を組んで微笑んでいた。
美しいプラチナの装飾が彼女の呼吸の度に天井に吊るされた多灯型の照明具から熱を反射して光る。
変わらず結ばれる母君の赤いリボンに昨夜の物憂げな表情が頭をよぎったが、今日の彼女は至って普通の立ち振る舞いだ。

「姫様」

会話に没頭して姫に気付かぬとはなんたる不敬。
子どもたちをその腕に抱えたままでは無礼に当たる、お見苦しい所をと一声かけて子どもたちを降ろそうとすると、私の腕に手を添えて、そのままでいいと阻まれた。

「さあ、みんなは今日も元気そうね」
五分丈のパフスリーブにペールピンクの優しい色合いが愛らしい。
彼女が二回手を叩く。乾いた音が兎のように廊下を跳ねた。
「はい!」
済まし顔で年長のエイベルが歩み出ると、姫様は今日もお美しいですと貴族か騎士のような事を口にするので笑ってしまった。
なんて可愛らしい騎士でしょうと姫様は膝をついてその小さな頬に感謝のキスを贈る。


「昨日は貴方達の歌声、素敵だったわ。」
8人は城下町の子どもの中から選抜され、饗応の日に聖歌隊と一緒になって少年合唱団として歌う事になったのだと教えられると、何と無く自分まで誇らしい気持ちになって、心に緩やかな火が灯ったような暖かさを感じた。

皆は口々に、先ほど私に話したような城下町の些細な幸せと発見を姫様に報告しては、ころころと表情を変える姫に喜んだり照れたりを繰り返す。
数分も話すと、別のものに興味が、
具体的には廊下に流れてきた香ばしい昼飯の匂いにつられて、姫様への挨拶もそこそこに食堂へと駆けていった。
今度こそ廊下を走るなと一言添えられたものの、胃袋を鳴らす彼らの耳に届いたかは定かではない。

「子どもがいるって素敵ね」

姫様は駆ける子どもたちの背中を眺めながら淋しげに笑う。
その笑顔に違和感を感じる間も無く、彼女の口から答えは出された。

「実の子どもなんてまだまだ先か、私じゃ産むことなんてないのかもしれないけれど。」

国内外からの多くの助力のおかげで、最後の砦へ逃げ延びてからここ数年の王国復興まで、血の滲むような国民の努力はあったものの、姫様が懸念しておられたような無理な婚約を迫られる事はなかった。
それはこの激動の時代の中幸福なことで、
世継ぎの事を考えれば婚約は遅かれ早かれ組まれるだろうが、それまでゆっくりと、その心のままに共に歩む相手を見つけてくれればいいと思う。

「姫様のような人格者であれば、いつだって王に勝るとも劣らない貴台が表れることでしょう。」
「やだ、貴族の婚約基準なんて、女性は歳よ」
うら若い方が良いに決まっているわと、姫は自らを下卑するように笑う。
「世の女性に求められるものは時代によって移り変わります。お言葉ですが、年齢でその方の価値を定めるような者であれば、私も王も賛同致しかねます。」
幾つになられても麗しいこの人は、色恋に大してどこか投げやりだ。
一時期は一年前に村娘と結婚した勇者への想いがあったのかとも考えたが、提言するもそれは違うと腹を抱えて笑われてしまってからは姫様の杞憂に原因の当てもない。

姫様は身の置き場を探すように少し踵を上げる。


「お父様に聞いたのよ。貴方に縁を組もうかと。」


ふと変えられた話題に驚いた。
自分がその話を聞いたのは数刻前だ。王は自分よりも先に姫様に縁組の話をしていたのか。
姫様の口から直接釘を刺されるとは、形なりとも一国の誇る英雄であれば、縁組の価値は個人の判断に留まらないのだと見せ付けられたようで、王も人が悪い。
国の為であれば、王の判断に私が逆らうようなことはないというのに。
不平を申し立てるつもりもないが、心がざらつくような気がした。

そんな私を尻目に、姫様は話しを続ける。
「お父様はずっと気にしていたのよ。」
ウルノーガにその身を奪われていた間、貴方を独り身のまま過ごさせたことに後悔しているようだったと。彼女は、自分が聞き出せなかった王の心の内まで続けた。

どんな決断をされようと実の父のような方だ。心配はさせたくない。


「私も先ほど仰せつかりました。いきなりのことでしたので驚きはしましたが、王の計らいとあらば、私はそれに応えるまでです。」
当たり障りの無い返答だったと思うが、姫様は怪訝そうに眉を顰めた。

「献身的な将の行く末を案じるのもいいけど、こんな年の私を置いて騎士の縁組みを優先させるなんて、あんまりだわ。」

ため息付いて腕を組み替える彼女は普段の落ち着き払った態度に比べると、らしくなく当たり散らしているように見える。
何か悲しいことでもあったのだろうか。
いつまでも幼子ではない。成熟したこの方にも思い人が出来たのかもしれない。
「姫様から王へその思いをお伝えすれば、真摯にお考えいただけるでしょう。」
人目もある城内の廊下で話す内容には似つかわしくない。
声を落として返すと、彼女は突然何かの糸が切れたように、それまで大仰な身振りで話していた手を不自然に止めたまま、何処を見ているのか視線を落として、そうね。と小さく零した。

一言断って職務に戻る彼女の背中に、何か力になれることはないかと考えていた。





草葉の露も冷たさを増す翌日は、冷涼な朝から翌月に控えた宴の凱旋練習を行っていた。
城下町の決められたルートを回る為、広範囲にかけて声を荒げて指示をしていたので、喉の調子がおかしくなりそうだった。
大まかな段取りを終えると、午後の仕事に移る為兵を解散させる。
皆に昼食を摂らせる間、自らは愛馬の様子を見に東の裏手に回った厩へ向かった。

暖かい時期は裏手の平野に放牧している軍用馬は、初寒の今の時期からは主にこの厩に囲っている。
干し草の散らばる煉瓦と木造の小屋に足を踏み入れると、動物特有の臭いが鼻を突く。
簡素な小屋の仕切りの中に彼は居た。
「リタリフォン、今日も疲れたろう。」

黒毛の愛馬リタリフォンは全長2メートル、重さ1トンを超える重量級の馬だ。
重装騎兵の乗馬の中でも大型な、その力強い姿は自らも見惚れる程で、気性も俊敏さも、どれを取っても自慢の相棒だった。

手を伸ばして、顔を寄せる。

馬の世話は好きだ。
軍用馬には気長な調教が必要で、中でも騎兵用の軍馬には、手綱を用いずとも反応すること、血液の匂いや戦闘音に耐え、人を踏みつけることをいとわないことが求められた。


荒波のような戦場の中、目の前で殺されていく仲間の姿が蘇っては、いっそ死んでしまいたいと思った日が何度もあった。
叫び出したくなる夜に、幾多の訓練と戦場を駆け抜けたこの勇敢な黒馬に触れていると、少しだけ心が落ち着くような気がした。






「グレイグ様」
呼ばれた名に振り向くと、厩の入り口に、戦闘服のままの部下が立っていた。
支えてくれる兵の中でも数の少ない女騎士。
彼女は実に努力家で、戦場でもその若さからは想像も出来ないような剣さばきで戦果を上げる一人だ。
厳しい昇級試験を勝ち抜き、一軍の座をその手にしている。

身の何倍もの魔物にも敢然と立ち向かう彼女を笑う者は一人もいない。先ほどの凱旋の際も国旗を掲げる重役だった。

「今、お時間宜しいでしょうか」
何かと男所帯の兵の中で悩みもあろう。
「リタリフォンの様子を見に来ただけでな。もう出よう。午後の仕事までは時間があるから、私で聞けることならなんでも話してくれ。蟠りがあっては暖かい飯も喉を通らんだろう。」

「戦火のお話ではありませんから、もし城へお戻りになられるのでしたら、歩きながら。」


頷いて厩を出ると、広場に続く石畳みの舗装路を並んで歩く。
途中、ぽっかりと開けられた空間に置かれる碑石の前に立ち止まると、二人並んで、胸に手を当てたまま黙祷を捧げた。

秋の終わりの乾いた風が枯葉を巻き上げて小さく旋風を作った。


この国に戻って直ぐ、王に自分の望みを聞かれた際、亡くなった者の魂を労ってやりたいと定期的な慰霊碑の整備を頼んだ。
彫り込まれた文は、その命に対する労いと感謝の言葉だ。
無い資金の中から、優先してこの慰霊碑を建設してくださった王の計らいに感謝した。


慰霊碑の下には、遺骨は無い。
見つからなかった者が大半だったのだ。その行方すら知らぬまま、石碑に名の刻まれた者も多い。
全身が千切れるような悲しみは消えないが、乗り越えて行かねばならぬ。

こんな不甲斐ない自分を、変わらず慕ってくれる騎士たちを。残された命を護ろう。

「ありがとう。きっと、お前の挨拶を皆も喜んでいるだろう。」
時間を貰ってしまったが、探しに来てくれた彼女の要件を聞くために体を向けて向かい合う。


「…国が落ち着いたからと、決して浮かれているわけではない事、先にお伝えしておきますわ。」

ゆらりと静かに顔を上げる彼女の大きな瞳が、請うように揺れたのを見て、続く言葉を聞かずとも分かる気がした。


「私、ずっと、グレイグ様の事をーー」









音が、消える。




虚像への憧れを自らに求められる事が辛くて、咄嗟に、脳が拒絶した。


リップシンクに乗せて思い出したのは数日前の王との会話だ。
王宮で姫様に指摘された通り、それは縁組みの奨めだった。


「…私は国にこの命を捧げております。」
余りに突然の話しだった為、寝耳に水というか、正直、他人事のようにしか思えなかった。

「息子のように思ってきたお前の子どもを、私も可愛がりたいのだ。」
人の出払った玉座の間で、肘置きに手を置くこの方が、愛娘の成長を見られなかったことを悔やんでおられると知っていた。
その王に孫の顔が見たいというような頼み方をされて、無下に断る気にもなれず。国に忠誠を誓う身で特定の対象を作る事は弱さになりますと伝えると、
王はそんな事はない。お前は気付いているはずだと仰って、もう一度、よくよく自分と向き合ってみよとご教示頂いた。



「お前の気持ちに気付かず、すまなかった。だが…私は」
己と向き合う事なら、呼吸を忘れたくなる程、常にしている。
こうしていつも支えてくれている彼女の思いに気付いてもやれない。近しい者の心に目も配れない程、自分は自らの事ばかりなのだ。


元来こう言ったことにも疎く。彼女の好意を気付かず踏み躙るような、無体を敷いたことはないかと何時ぞやの日を思い出していた。

言いあぐねる私を尻目に彼女は手を翳す。

「嫌ですわ、戦士を惨めな気持ちにさせないでください。私、グレイグ様のお気持ちを求めてなどおりません。」
ただ、この思いをお伝えしたかっただけですわ。

見返りを求めるものではないと、それでも尚、知っていてほしいと告げる彼女の肩のなんと心細いことか。
まだ少女とも付かない齢の女性だ。
兄に手を引かれ入隊を希望した時はまだ九つだった。
腰よりも低い少女の大きな声と、煌めく瞳が印象的だった。

彼女の思いにせめてもの返答をと感謝を告げたが、誤解させてはならぬと不用意に触れる事を躊躇った。
彼女の心が落ち着くまで隣にいようと表情を伺うが、この騎士は元から涙など流してはいなかったのかもしれない。

「グレイグ様の下で王をお護りすることが、私の人生の誇りです。」

復興を機に、過ぎゆく日々に思い残しがあってはならぬと思いましたと続ける彼女は既に笑顔で、
なんて真っ直ぐな女性だろう。そして、なんて強い戦士だろうと思う。


「この国を、貴方を、愛しておりますから。」

そう言って笑うこの戦士が、まだ幼い頃の、強くなりたくて、憧ればかりで、真っ直ぐにぶつかっていた頃の自分に似ていて、思い出した。
あの頃、何故自分があんなにも強かったのか。何を理由に、懸命に鍛錬に身を投じていたのを。


何も、責任ばかりではない。

私は、この者達を愛しているから、護りたいのだ。
二度と傷つけてはならぬと誓うのだ。

それは、免罪を求めての行為ではなかった。

今日よりも強くなりたいと陽の昇る明日に望むのは、二度と、大切な人達を失いたくなかったからだ。
永く愛していたかったからだ。

光輝くような彼女を見ながら
私は彼女のことを、色恋ではなくても、これまでと同じように、大切にしようと誓う。


きっと、ホメロスの管轄に居た者たちも、これだけの思いで、彼奴の下に付いたのだろう。


俺は、踏み出さなくてはならない。






少しずつ、本当に、少しずつ、
些細な幸せが戻ってくるような。

心に、暖かさが灯るような日だった。


















明け方の平野に聖歌隊の賛美歌が、静かに響いている。

最近では日が更に勿体つけて出てくるようになった。今は山の向かい側だろうか。
地元の者からは導きの教会とも呼ばれる教会から、崖上の大城を見上げれば、城の上部には朝日が照りつけている。
盆地にあるこの場所はまだ薄暗いが、今頃見張り台の兵はその日一番の朝日に愉悦を得ているだろうか。


毎日この時間に、愛馬の背に跨って見回りを続けて、もう4年近くが経った。


大樹が再び空に戻ってからも、土砂に堰きとめられた川の復旧や、孤立した集落への物流手段を作るのに長い時間を要したが、当時は暗雲の立ち込めていた空気も、今は随分と回復した。
どの地域にも緑が戻り、皆が生活を立て直しているのを見て、
そろそろこの見回りも、頻度と範囲を狭めてもいいかもしれないと考えていた。

バタバタとした足つきで、誰かが最下層からの丘を駆け下りてくる。
薄暗闇に目を凝らすと、長いドレスの裾を掴んだマルティナ様が走って来るのが見えた。
あまりの様子に、何事かと愛馬を降りる。

「姫様!」
「グレイグ!おかえりなさい!」
駆け付けた姫様は満面の笑みで、いきなり首元に抱きつかれるので変な声が出た。
何があったのかは知らないが、こんな所を他の者にでも見られれば、いくら幼い頃から知っているとはいえ立場上宜しくない。首に回った姫様の細い腕を外させる。
その間も姫様は本当に、これまで暫く見たこともないような笑顔で笑っていた。

「一体如何したのですか」
「バルコニーに出ていたら、密林から戻ってくるリタリフォンを見つけて走って来たの。もう、居ても立っても居られなくって。」

この人はこんな姿で下層を通ってきたのか。あそこはまだ安全も確保されていないのに。
「見張り兵を叱らないであげてね。グレイグに会いに行きたいって、私が頼み込んだの。」
肩で息をする姫様のドレスには草がついているし、髪の毛も乱れている。
ただ事では無さそうだが、緊迫した雰囲気でもないのをいい事に、少し、旅の間の彼女を思い出してつい笑いそうになった。

「嬉しい事があったの!聞いて、お父様ったら可愛いのよ。」

「前に友人のディアナが休暇のお土産に買って来てくれたダーハルーネのケーキが美味しかったって話しをしたらね、お父様も食べたかったって言うから、落ち着いたら行きましょうって話していたの。」

それは王から先日聞いた。
あれから数日、王は大変上機嫌だと皆から聞く。

「私、落ち着くのなんてまだまだ先だと思ってたのに、お父様が今日、饗応の選定の為にダーハルーネに食べに行こうって、日取りまで決めて約束をしてくれたの。こんなに早く!それもみんなで食べるケーキの選定ですって。お父様ったら飛び跳ねるくらい喜んでくれてね。見ていてこっちが嬉しくなっちゃったわ。」
そういう姫様も、興奮して掴んだ私の手を振りながら、飛んで喜ぶ。
流石、我が主君は行動が早い。愛娘との休暇の為に、大臣と職務の調整をする姿を思い浮かべて微笑ましくなった。

目の前のこの人も幸福が溢れ出てくるのだなと思ったら、ぽろぽろと溢れる幸福の受け皿に選ばれている事がくすぐったいほど誇らしかった。

「なんて楽しみかしら!こんな日が来るなんて!」
掴まれた両の手を握られる。
ユグノア城が滅ぼされたあの日、姫様は8歳ほどだったか。あの頃もこんな風に、嬉しい事があっては私の手を握り締めて興奮気味にまくし立てる、玉のような幼女だった。
「風呂にも入っていないので、泥が付きます」
そう忠告すると姫様は笑う。

「あは、そうよね、ふふ」

姫様の手は、暖かい。
ここ数日で溜まった幸福が、姫様の手の温度さえ自らに受け入れ易く変えてくれているようで、驚いた。

「ただいま戻りました。」
「ふふ、きゃぁ」
多少落ち着いて平常心を取り戻すと、自分の身なりに恥ずかしくなったようで、乱れた髪を整えて耳の後ろにかけようとする姫様の指にリタリフォンが顔を寄せる。
驚いた声を上げたが、そのまま姫様はリタリフォン鼻先に額を当ててせわしなく撫でた。
「今日もお疲れ様リタリフォン。毎朝グレイグに起こされて大変でしょう。」
賢く、人を見定めるような気性のあるリタリフォンだが、彼は姫様には逆らわない。
再会した日に落馬させられたのも今となっては思い出だが、そこまで主人に似なくてもいい。

リタリフォンに話しかけ続ける姫様の靴に泥がついているのをみて、姫様の笑顔が、高価な靴やドレスよりも黒馬の相棒に向けられていることが嬉しかった。


「最近、何か良い事があった?」
「何故です」

「良く笑うようになったもの。」
何処で見られていたのか。リタリフォンを撫でる手を止めずに姫様は続ける。

「怒ってるかもって思ってた。」
「怒る?何をですか。」
「怒っていたでしょう。貴方への縁組の話し。」

姫様はまた、リタリフォンに目を合わせる。
怒っていたわけではない。国の力になるのであれば多少の利用価値でも良いとさえ思っていたし、我が王が善意で勧めてくれた話しだろうことも理解しているつもりだった。

「本当はね、悩んでいたから、私が推したのよ。お父様に。貴方に家族が増えるならいいんじゃないかって。」

お父様は、貴方の人生に口を出すことについて、出過ぎた真似でないかと悩んでいたから。
「だから、責めるなら私を責めて。」
「責めるなど。王と姫様にそこまで考えて頂ける私は果報者です。お心遣いに感謝致します。」

伝える言葉は本心だ。
いきなり言われた時には困惑が先に立ってしまって、きっと言動にも出ていたと思う。
その節、王には不快な思いをさせたかもしれない。



「きっと素敵な人が現れるわ。」

「あの日も、そう、言おうと思ったのよ。」

あの日とは、秋梅雨の終えた夜、演習場に顔を出した日の事だろうか。
不明瞭だった姫様の用件が今になって聞けたことで、あの日感じた違和感に納得する。


縁組に対しては、まだ我が身の事という自覚が起きなかったが、
ありがとうございますと言うと、彼女も心が晴れたように、黒馬から目を話すと私の目を見て笑った。

「ダーハルーネへのケーキの選定に、貴方も来てくれないかしら。勿論仕事は忙しいと思うから、強要はしないけれど。」

「護衛を王がお許しになるのでしたら、願っても無い事です。」
何と。これほどの褒美があったろうか。
本当に楽しみだ。

「貴方が来てくれたら、お父様はもっと喜ぶわ。」


山脈の合間が金に光っている。
崖上の城は既に陽の中だ。
きっと、あの山を越えたら此処にも太陽が覗くだろう。







流れる神への賛美歌は、もう心臓を抉らなかった。


少しずつ、血は止まっていた。



彼女の豊かなエンパイアウエストのドレスが、風に煽られて優雅に踊る。
宙に舞ったドレスの裾が指先を掠めて、彼女との距離が未だ近すぎた事に気がついたが、裾に丁寧にあしらわれたベルベットリボンの感触を忘れたくなくて、そこから動けずに、時折触れるドレスの感触を拾ってた。

彼女の瞳が煌めいている。幸福が溢れるものは、皆こんなにも煌めいていただろうか。

「私も、これまで自分なりに考えて、精一杯生きてきたと思っていたの。でも積まれる本には知らないことばかりで。この歳になっても学ぶことは幾らでもあるわね。」

それは、私もだ。
こんな歳になっても、自然の力から、他者の視点から。

日々日常を生きる事は、学ぶことばかりだ。

「私も、恥ずかしながらこの歳になっても、周りの者には教わる事ばかりあります。」
これから先、誤った選択をしない保証などない。
それでも、多くの人々が許してくれたように。自らも許せる人間になりたいと思う。
その思いに応えたい。

「浅学の身ではありますが、姫様のお力になれるよう、精進して参りますので」

賜った盾と国章に誓って、私は王と貴女のお側で、国に降りかかる風雨の盾となろう。

多くの者を守れるように。



「何か」

「ううん。貴方がそんな風に笑うの、久しぶりに見たなって。」

自分は、どんな風に笑っていたと言うのだろう。

修繕の済んだ教会の屋根に付くシンボルを見上げて、思う。
あの日、この教会には、神に救いを求めた者が辿り着いて、生きたいと祈ったままの姿でこと切れた人々の遺体が多く重なっていた。
もっと早くにこの場に来れていれば助けられた命もあったかもしれない。可能性の話をすれば切りもない。
また、心臓がどくりと鳴って、流れ出しそうな血を塞ぐように、姫様は奏でる。


「ねえ、あと十年…いえ、二十年でも、三十年でも経った時に、今は色の違う石積みが、古ぼけて同じ色になってきた時には、新しく産まれてくる子ども達にはきっとこう語り継ぐでしょうね。」

朝日に照らされる崖の上から、黄金に染まった城壁はその色の違いを仄かに感じさせて、斜めに崩れた姿が今も痛々しく眼に浮かぶ。

「私達がどれだけ沢山のものを失ったか。それでも諦めなかったから、この笑顔があることを。小さな石を一つ一つ積んでいくように、大切に、人と時間と、多くのものに向き合って生きて行きましょうって。そう教えるのよ。」

彼女は歌うように話す。

射し始めた陽に照らされる、その笑顔を見て。
そのあまりの強さに
胸が締め付けられるような気がした。



こんな歳まで生き延びてみると、自分の想像の及ばない事態が起きる事にも幾分か慣れたが、
こんなにも惨めな、そして愚かな胸の高鳴りを、この歳で感じると誰が予想出来たろう。

今は亡き友人に話せば真面目な顔で正気を疑われたに違いない。


決して口にできる思いではない。
しかし、あの戦士が私に思いを告げてくれた時の、煌めいた瞳を見て、人を思えるということがどれだけ大切な感情かを思い出したから。
この思いを抱けることに、後悔はしていない。
なんと愚かな意識。なんと頼りないよすが。そしてなんと愛しい感情か。

生きるということは、過ちの清算の為だけではない。

王に指摘された通り
私はずっと、知っていたはずだ。
大切な物ができる事が、弱さになるばかりではないことを。

何故忘れていたのだろう。
愛しい子ども達の、背中を任せられる部下達の、そして大切なこの人達のいる時間と幸福を、
護りたいと思うと同時に、その隣に立って笑っていたいと願うことが、罪にはならないことに。


俺は、与えられた時間を、大事に過ごそう。

勇気を振るった戦士のように、愛を語る気概は無い。
吐き出しきれないこの思いの丈を込めて、会話の糸口を探す途中、高い位置にある城から賛美歌が止み、デルカダールに古くから伝わる勝利の歌が届き始めた。




いま ひびく よろこびの歌
朝が来た 朝が来た
我らを照らす 明日への光

大鷲が天に舞い 我らを たたえる
山河の水は 清く澄み 我らを癒すだろう

歌え デルカダールの民よ
強き心の 太陽の民よ
歌え 歌え よろこびの歌を




雲が刻々と明るみを増し、盆地から山脈の向こうに光が輝き始めたのをみて

「陽が、昇りますね」

そう零した自分の言葉が、先日聞いた言葉と重なって、
その時にやっと、あの日の兵が、
大切な人に幸福を伝える事が出来ないもどかしさと
自らの置かれる幸せの中で、居た堪れなくなる前に、手元の些細な幸せの共有で場を濁そうとした事に気がついたのが、
なんだかやりきれない思いだった。


2017.10.12

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